1k≒innocence

散文だったり、アニメ分析だったり。日常が切り取られていく姿は夏のよう。

愚かな疲弊をやっています

よくオタクが「俺が狂ったらその時は始末してほしい」とインターネットでぼやくことがあるが、もはや狂っているのは自分なのか世間なのか、判断する基準がわからなくなった。というのも大手Vの深刻な引退宣言と無理筋の炎上が立て続けに同時並行で流れてきたことが、おれの中のインターネット価値基準を大きく毀損したからだ。


前者はたまたまリアタイで引退のお知らせ配信を視聴し、本人の真摯さに心打たれながらもこのようなひたむきな人が生き残れないインターネットに少なからずショックを受けた。その後は運営やら本人の人間関係やらをオタクたちがゴシップの範疇で大議論するのは最早お約束だが、それでも真面目なファンの「これ以上どうしたら素直に応援できるんだよ」という苦しみだけは、大量のノイズコンテンツの中からでも突き抜けてくる。

後者の炎上に至っては最早詳細すら深堀りしたくない。発端となったネタツイは若干の難解さはあるもののネタとは理解できる範囲だし、そもそも企業Vが誰かを揶揄するような社会風刺を意図して発信するわけもないのは明白である。それにもかかわらず過剰で執拗な引用ツイによる暴言が投げかけられ、同一人物説を噂される別ライバーにまで延焼させられる始末になった。この件でふたりとも普段のキャラクターとはかけ離れたお詫びや言及をするに至り、普段からエンターテイメントを求めている大多数の良心的なファンにまで不安が伝播する事態になっている。

直接は無関係なそれぞれの出来事に補助線を引くなら、どちらも古参V、もっと恣意的な言い方をすればコロナ禍前のインターネットから生まれてきた存在であることを強調したい。企業としてスケールするかも不明なVtuberという業態を、ほとんど手探り状態で積み上げてきた実績と苦労はそう簡単に想像できるものではないし、ここまで生き延びてきたことこそその証左だろう。おれはふたりの熱心なファンでもなんでもないが、この点で彼らのサバイブへの尊敬の念は強い。

2010年代中はインターネットはクリエイティブの試験場のような側面がしっかり残っていたし、ジャンル違いや巧拙を抜きにしてクリエイティブの精神には一定のリスペクトがあったように思う。合わなければさっさと離れればいいし、攻撃的な不満や愚痴の類は別垢匿名でひっそりやるのが最低限の線引きだった。今回の出来事にはそうした最低限のリスペクトすら喪われた環境、そもそも他者へのリスペクトという概念が元々ない人の多さにいよいよ絶望した。

「合わなければ離れる」ではなく、「合わなければ自分にとってどうでもいい存在なので、攻撃しても良い」というインターネットの雰囲気がとうとう無視できなくなって、昨日からとてもつらい。

 

別にインターネット懐古厨と思われても構わない。インターネットが変化していくのは全く問題とは思っていないからだ。深刻なのはインターネットへの人々の付き合い方があまりに急速に変化してて、しかも攻撃性が高まりすぎている点である。理由はいくらでも推測できようが、コロナ禍で世界中があまりにインターネットに近づきすぎたのは無関係ではない。

今日もAI絵師を疑われたお若そうな絵描きが、わざわざ鉛筆書きした絵を消しゴムで消してAIでないことを証明しようとする動画がTwitterに「おすすめ」で流れてきた。何重にも誰も幸せにならない仕組みに、我々は勝手に参加させられている。

身近な良識ある古参インターネッターはだいぶ前にみんなBlueskyやマストドンへ退避してしまった。時々覗きにいっては生存確認している。おれはアカウント開設から16年分くらいの人間関係の積み重ねもあって、Twitterから離れる踏ん切りがつかない。

多くの攻撃性の高いインターネットユーザーにこのようなテキストが読まれることもないであろう諦めもまた失望に拍車をかける。自分と無関係な出来事にちくちく精神のリソースを奪われるような生活を続けてしまっているにも関わらず。

 

長らくはてなブログにいるような平穏なるインターネットの皆さんは、どうやってインターネットと付き合っていますか?

それとも「うまくインターネットやろう」と考えること自体、もう無意味なんでしょうか。

今こそ鶴巻和哉の話をした方がよくないですか?

本稿は宇宙世紀に全く明るくない旧ガイナックスオタクが提供しています。
 
そもそもマッキーこと鶴巻和哉ってジークアクスで初めて通しでテレビシリーズの監督を担当したんですよ。あのキャリアでテレビ作品の初監督がガンダムってかなり異色じゃないですか。 
ガイナオタク的にマッキーは劇場版とOVAの人というイメージでむしろ協業した榎戸洋司の方がテレビシリーズのプロというイメージです。むしろ今からでもスタードライバーは見た方がいいです。
 
じゃあマッキーがテレビアニメやったらよその作品と何が違うのって話になるんですがフリクリを例に挙げればマッキーは「事前知識なしの視聴者に25分x6話を叩き込む」をこなしてきた人です。シンエヴァも上映時間150分くらいでしたし、マッキーにとってそれ以上の尺となるアニメ制作は未体験だったんじゃないですかね。ガンダムに1クールなんで短すぎると放送開始のあたりから言われていましたが、マッキーからしたら「普段の倍の尺がある!!」と思ったかもしれない。
エヴァフリクリでは物語上で強烈な詰め込みと大胆なカットを両立してきたわけで、その手法を「参考作品あり25分x12話」に適用したら毎話の刺激度が爆上がりするのはある意味必然ではないでしょうか。SNSでの盛り上がり方もそのライブ感から来ていると考えられます。
宇宙世紀ガンダムに全く詳しくない自分のような人間でも楽しめたのにはこの圧縮とライブ感があったからです。説明はしないがフックとして様々な要素を転がしておくマッキーの手法は、一話見たら次週まで騒ぐ時間があるテレビ放送と思った以上に相性が良かったように見えました。
 
一方で本作を同人誌(的)と評している方々もいらっしゃいました。そはれそのとおりで、フリクリの後にマッキーが手掛けたトップ2は「参考作品あり25分x6話」でした。これはむしろジークアクスに近い性格を持った作品です。
OVAや劇場版など、これまでマッキーの作品群はお金払わないと見れない形式のものがほとんどでした。言い換えればわかる人にはわかる、ある種クローズドな作り方をしてきた側面があります。
日テレの新規IPとなった劇場版ヱヴァのキーパーソンというネームバリューはあるにしろ、地上波という開かれた場でもこれまでと同様の作風を貫いたのはマッキーのみならずカラー全体としての社風といっていいでしょう。(それだけに「のりきれなかった」という感想が出るのも自然だとは思います)
「わかる人にはわかる凝縮しきった内容を、わからない人もたくさんいる地上波で公開した」のがジークアクス現象の要点だったのではないでしょうか。
 
メタ的なことを言えば庵野秀明が提唱するコンテンツ保全の面でも本作が既存のガンダム作品の掘り起こしに寄与してますし、エヴァシリーズを終えたカラーがテレビアニメに注力できる体制を構築したのは商業面でも重要だったのではと推察します(オチビサンのような短編はやってましたが)
 
とはいえこれまでのマッキー作品から受け取ってきた「なんだかよくわからんけどめちゃくちゃ気持ちよかった!!!」というプリミティブな感情はジークアクスからも十分感じとれました。しょうがないじゃないですか。ベスパ乗ってリッケンバッカーのベースで主人公の少年ぶん殴ったりする女が出てくるようなアニメ見て育ってしまったんですから。クライマックスで劇中歌流れてくるあたりでメインキャラの独白が入ったりしたらそれよ!!!!と脊髄反射してしまうようになってしまってるんです。

 

それとガンダムでここまでできるなら、逆にエヴァもいずれ同じような取り上げられ方する時代があと20年くらいしたら来るんじゃないですかね。
その時には今回のガノタの皆さんと同じように後方彼氏面しながら新規の皆さんのことを見守りたいと思います。
 
それではOVA時代のお作法として、謹んで2周目の視聴に入りたいと思います。
 
叶っていたいも 勝っていたいも 時間の翻弄で
目指してた果てに 行き着いた先
満たす孤独も あるのかな

止まってしまって わかりすぎたって
選び変える勇気が こんなに尊いならば
疑う必要はない 騙し合う必要もない
連鎖よ続け
 

負けヒロインは多すぎるし、俺は感情が多すぎる

『すずめの戸締まり』について、心の新海誠と対話した

心の中の新海誠のイメージ

 

「今回もエンタメとして皆さんが楽しめる映画を作りましたが、これまで僕の作品を見てきてくれた観客の皆さんを信じて、いつもよりちょっと多めに僕の思いを入れさせてもらいました」

心の中の新海誠―イマジナリー・シンカイ―がこう語りかけてくる。
2007年に『秒速』と出会ってから15年、少しずつその形が見えてきたイマジナリー・シンカイとの対話が『すずめの戸締まり』によってついに可能になった。


もちろん冒頭の言葉は本当に本人がそう言ったわけではない。ないのだが、あの柔和な笑顔と共にこのような言葉を語ってくれる謎の確信がある。
『すずめの戸締まり』について振り返ると、作品よりも新海誠自身への言及がどうしても避けられなかった。それほどに『すずめ』は過去作と比較して制作側の思想が大きく表出している。
過去に実際に起きた災害をとりあげる作品は、素人から見ても多方面にリスキーなのは明白だ。大規模災害ほど「当事者」のグラデーションが複雑になり、作品の受け止め方に大きな振れ幅が出る。

それにも関わらず『すずめ』はこのような形で公開されるに至り、そこには貫き通した覚悟があったはずである。

本来であればなるべく作品にのみ言及すべきであろうが、今回に限っては自分の中に培われてきたイマジナリー・シンカイとの対話を交えながら、『すずめ』に到るまでの新海誠(本物)の作家性について述べていきたい。

正直なところ、自分がどのように本作を振り返ることができるか、思考の整頓が本稿の目的でもある。

 

新海誠と建築

「東京だって、いつ消えてしまうかわからないと思うんです。だから記憶の中でも…なんていうか、人を温め続けてくれるような、風景を…」

これは『君の名は。』の終盤、主人公の瀧が就活の面接でゼネコンの社員に述べる志望動機の一部だ。

既にここから『君の名は。』、『天気の子』そして『すずめ』までの道筋は築かれ始めていた。

新海誠の実家が地元・長野で100年以上続く建築会社なのはそれなりのファンであれば知っているところで、これが建物、そして風景へのこだわりの基礎になっている可能性は大きい。

例えば『君の名は。』で瀧が風景スケッチに長けていたこと、同級生らとカフェの梁について言及するシーンはまさにそれを端的に表している。

また別のキャラクターでは三葉の同級生・勅使河原ことテッシーの実家も新海誠同様に土木業を営んでいる。そのふるまいを見るにテッシーの父は地元の有力者であるようで、父の「お前が継がんでどうするんじゃ」という態度に、テッシー本人は諦めのような感情を抱いている点も印象深い。(結果として糸守町がなくなったことで継ぐ実家すらなくなってしまったが…)
「フツーにこの町で暮らしていくんやと思うよ、俺は…」のセリフから想像される諦念は重い。

実際、新海誠は家業を継ぐ過程として実父の旧知の企業への就職を予定していたが、それを自ら断り、映像制作の道へ進んだ経緯がある。そこに大きな葛藤や覚悟があったことは想像に難くない。
テッシーは家業を継ぐ決意をした別世界の新海誠オルタナ・シンカイと捉えてもいいかもしれない。

どこまでも外野からの想像の域を出ないが、本人の生い立ちと作家性を完全には切り離せないだろう。
宮崎駿の飛行機への執着は実家が航空部品の製造企業だったことと無関係ではないだろうし、庵野秀明は実父との関係性が『エヴァ』に落とし込まれているだろうと、NHKのインタビューで述懐している。

本人のパーソナリティを推測するような言葉はあまり述べたくないが、新海誠は家業で果たせなかった建築(=都市構築)の分野に、アニメーションを通して関わろうと模索してきたのではないだろうか。新海作品の最大の武器である緻密な風景描写や、「シンガポールの女」としてネットミーム化した大成建設のCMもその一環と言える。

そして前述した瀧のセリフが示すように、彼なりにコミットとしてきた街という存在、そして街と共にある人々の存在も、時間の経過や時には理不尽な事象によって失われていく。それを3.11で目の当たりにしたことで2011年以降の作品の方向性が確定した、と想像する。

建築という視野があったことで、都市の衰退や喪失を「そこにあったものが無くなる」と捉えるだけではなく、さらに踏み込んで「人々がいちから築き上げて、維持し続けたものが無くなる」という都市構築の起点まで遡る想像力が、新海誠には他のアニメーション作家よりも強かったのではないだろうか。

・土地を語る


さらに深耕すれば建物が築かれる基盤になる「土地」そのものへの関心があればこそ、多数の日本古典の引用も説得力が増してくる。

日本の神話や古典には原点となる土地の風土が強く反映された物が多い。『すずめ』で言えば神武東征や天岩戸といった神話がベースになっているが、物語をトレースするだけでなくそこに土地というエッセンス(今回では神戸や東京など、近現代で大きな災害のあった場所)を加えることで、現代人にも理解しやすい形に再構成して『すずめ』のストーリーが構築されている。

君の名は。』『天気の子』と『すずめ』で大きく異なるのは、土地や自然現象といった人ならざるものたちに偶像性や意志を持たせている点だ。
君の名は。』の隕石は隕石そのものであったし、『天気の子』で陽菜と「つながった空」も、空想的なビジョンは示されたが万人に認識できる具体性のある存在ではなかった。
しかし『すずめ』では地震をミミズとして、ミミズを鎮める依り代を人語を理解するネコにしたように、自然物に意志を持たせた形で表現した。こうした自然物の具現化は過去作では見られなかったものだ。(そしてこれは新海誠なりの宮崎アニメへのリスペクトやアンサーだろう)
作中でも「気まぐれは神の本質」というセリフが登場するが、姿を与え、会話が通じるようで通じないキャラクターに落とし込むことで自然現象が人の意志の及ばない存在であることを強調することに成功している。
前半のクライマックスのダイジンの無邪気な「いっぱい人が死ぬね」というセリフがある。ダイジンは事実を述べているだけなのだが、そこに帯びる、抗いがたい不気味さの根底がここにある。

土地(日本の国土)とはなにか、その上に街を作るとはどういうことか、そしてそこに人が暮らすとはなにか。こうした着眼点は、いちから建物を作り上げる家業が身近にあって初めて培われたものであろうと思わずにはいられない。
そして人や社会にとどまらず、土地そのものにまで目を向けた点が『すずめ』の災害作品としての特色である。
そして「土地を物語る」という行為が、本来大昔から日本に根づいているカルチャーのひとつであることを改めて呼び覚ましたとも言える。

『すずめ』は今後長らく記憶に残る、伝承的作品を目指したのではないだろうか。


・11年の時間経過

『すずめ』では日本的な観念で日本的な事象を描くことに注力しているため、視聴者のバックグラウンドに日本的な感性がどれだけあるかで本作への移入度は大きく変わってくる。
事実、日本より海外での在住期間が長いフォロワーが3.11という日本特有の事象をモチーフにしてしまったことによって、一種の障壁のようなものがある旨が指摘されているのを見た。
過去作では隕石落下や異常気象といった、災害を抽象化したモチーフにすることで視聴者が個々の感性に基づいて自己を反映させる空隙があったが、『すずめ』では3.11に事象を特定することで、この空隙がかなり狭まっている。

しかしながら既に3.11から10年以上の時間が経過している。
すでに日本の中でも、特に10代-20代には遠い過去の話になってきている。新海誠自身も娘を引き合いに出して「(震災は)娘には記憶がないし、教科書の中のできごとになりつつある」と述べている。このあたりの制作背景についてはこれらのインタビューが参考になる。

eiga.com

 

mainichi.jp


つまり『君の名は。』や『天気の子』に通奏低音として3.11が敷かれていること自体、日本に住む人にも時間経過によって徐々に理解されにくくなっている。(これはもちろん大きな被害やショックを受け、今なお多かれ少なかれ苦しみを抱える人を除外するものではない)
新海誠自身、この時間経過による風化に焦りのようなものを感じている。

忘却への焦りを抱えつつも、一方でこの時間経過が災害を客観視するために必要な期間でもあった。
そして興行的に多数の人に自作を観てもらえる環境が整ったこと、これが『すずめ』で震災を直接的に扱うに至った経緯と思われる。

新海誠(イマジナリーではない)は繰り返し「今回は観客の皆さんを信じました」と舞台挨拶で度々語っている。
この言葉にイマジナリー・シンカイがこう付言してくる。
「この信じるという言葉は僕が描きたかったことがすべて正しいといった意味ではありません。ある人にとってはたった11年前、またある人にとっては11年も前にそういうことがあったという事実を覚えていてほしい、そしてそうした中でも、生きていけば鈴芽のように少なくとも大きくはなっていける未来があることを知っておいてほしいんです」

・新海版「生きねば」

作中の後半、鈴芽が「(本当は)死にたくない」と心情を吐露するシーンがあり、ここで『ナウシカ』の結末を思い出した。
宮崎駿は漫画版『風の谷のナウシカ』を、壮絶な戦禍の後に生き残った人たちを背景に「生きねば……」というモノローグで締めくくった。「いろいろ困難はあるだろうが、それでも生きにゃならんのだ」という宮崎駿らしいエネルギッシュなメッセージである。

では新海誠にとって、『すずめ』において「生きる」とはどういうものなのだろうか。
イマジナリー・シンカイはこう解説してくれた。
「生きたいと願っても、そうは言っても苦しい時は苦しいので、生きたい気持ちを否定したくなる時がある。誰かにとっては否定している状態が常態化しているかもしれない。それでももしかしたら、ちょっとでも生きたくなるような何かがどこかに転がってるかもしれない。そういう可能性を示しておきたかったんです」
あの柔和な微笑と共に、そんな言葉が浮かんだ。

 

・土地に何を見出すか

ここで事前のプロモーションにはほとんど登場しなかったにも関わらず、公開後に大きな反響を呼んだ大学生・芹澤について触れておきたい。
そのビジュアルのインパクトとは裏腹に、足立ナンバーの中古オープンカーを乗り回し、友人を追い回す理由は2万円の貸し借りという絶妙に抜けた設定で話題をさらっている。『シン・ゴジラ』以来の巨大不明感情の再来である。

芹澤は本編において「何も知らない外の人」として現れる。鈴芽が何者かも、草太が椅子になったことも何も知らない。結果として、(さすがに3.11の事実は知っているとしても)芹澤は今の鈴芽の故郷を見て「綺麗なところ」と、なんの衒いや気遣いもなく語ることができる作中で唯一の存在である。

 

『すずめ』では観覧車から神戸の夜景を望むシーンがある。このシーンでは鈴芽と草太のセリフが続き神戸の景色への言及は無いが、煌めく夜景がかなり長めに描写される。

おそらく多くの鑑賞者がこの神戸を無意識に「綺麗な場所」であると認識するはずだ。

それは鑑賞者もまた芹澤と同じ存在たり得ることを追体験(時系列的には先体験だが)させられているのだ。本作に神戸が取り上げられた理由を考えれば、このシーンの意味合いも大きく変わってくる。

 

土地はただそこに在るだけであり、敵でも味方でもない。

そしてある土地に対して何を見出すかはその人の記憶、体験…さまざまな要素で無限に枝分かれしていく。誰かにとってそれは希望や未来であるかもしれないし、その反対、あるいは何かが入り混じった複雑な気持ちであるかもしれない。

『すずめ』はこの「土地と人の関係」を純粋な事実として明確にした作品であり、極限にニュートラルな物語であることを目指している。

 

「何かに対して悔やんだり苦しんだり、楽しんだり前向きになったり、正直何も思わなかったり。いろんな思いが、そのままの姿であっていいと思うんです」

イマジナリー・シンカイは変わらない微笑で最後にそう語った。

 

あなたは鏡だった あなたは鏡だった

―Tamaki/RADWIMPS

 

アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』劇中のパロディの元ネタバンドまとめ(+おまけ)

これまで5話まで放送された『ぼっち・ざ・ろっく!』ですが、圧倒的な手のかかりようで爆発的な人気を見せております。

きらら作品らしい作画に相反して緻密な取材を反映した美術や背景には、実際に存在するバンドのパロディがかなり取り入れられています。

まだ放送半ばではありますが、わかる限りで元ネタのバンドをまとめておきたいと思います。(執筆時点で5話まで)

 

・わかったもの

左からSUPER BEAVERクリープハイプTHE CRO-MAGNONS(ザ・クロマニヨンズ)

 

三人組でそれっぽい名前が見えるのでback number

 

ハコのシーンで必ず目に入るニワトリ(KOKE ROCK)と、バーカウンター上(the HANDS)はそれぞれSAKEROCKthe HIATUS

バーカウンター奥の二人組ユニットU'sはB'z(なぜかふたりともギターだが…)

※追記:コメントで「ゆず」じゃないかというご指摘いただきました。ありがとうございます。

右奥のCHAMP OF HUMANのsleeping dayはBUMP OF CHICKENsailing day

 

右側のクールドライバー/HAKO-BOONはフルドライブ/KANA-BOON
エンディングテーマの作曲担当、谷口鮪のバンド。

ギターのさらに奥に貼ってあるポスターもHAKO-BOONのもの。


www.youtube.com


キターンの頭上、黄色いKaliKali Oishiiの上に小さいポスターが見えますが、Sigur Rosのジャケット(Med sud i eyrum vid spilum endalaust)っぽいです。

さらにその横のスケートしてるのはSKATER4というバンドらしいのですが、記憶で定かな元ネタが思い浮かびませんでした。

 

・よくわからなかったもの

「牛だぜモーモー」。名前的にモーモールルギャバンでしょうか。

受付まわりのポスターは全然わかりませんでした。

「君と散歩に出掛けたら」は楽屋にもありました。King of VegetablesやKaki Oystersなど、食べ物の名前が多いです。


nekoはなんでしょう…? 左の女性ソロのポスターTomatoという作品名と「ミノル」という名前は確認できます。

 

いかにも元ネタありそうなポスターですが、こちらもわからず…。星野源っぽい?

 

 

・おまけ

ざ・はむきたずに山田らしい人が写っています。

 

後藤は横浜市金沢区にお住まいのようです。

一話冒頭のシーンですが、ここは金沢八景駅前のスーパーとローソンです。

中学も横浜市なので確定でしょう。

後藤は「県外へ2時間かけて通学」しているそうなので、金沢八景からですと京急→JR or 東急で新宿方面へ通学でしょうか。帰宅部じゃないと心が折れそうです。


なぜ金沢八景かですが、主要メンバーの名前の元ネタであるASIAN KUNG-FU GENERATIONの出身大学・関東学院大学の最寄り駅が金沢八景駅になります。

海沿いにモノレールが走ってるシーンが時折出てくるのでもしや、と思っていたらそのようでした。

 

今日言いたいことはそれくらいです。

これからの放送でまた新しいパロディが出てきたら随時追加したいと思います。

 

 

 

 

『雨を告げる漂流団地』で揺らぐ不憫の境界線―高すぎるリアリティの副産物

 
インターネットから「サカウヱの好きそうなキャラがいっぱい出る」との通告を受けた『雨を告げる漂流団地』ですが、登場から異色を放つ金持ちギャルの令依菜がマァかわいくてですね

冒頭から「明日からフロリダのディズニー行くの~(ドヤァ)」と飛ばしてくる様子は女児化したスネ夫そのものなんですが、その後のザ・初恋って感じありありの言動とか周りへの当たり方とかは本作で一番人間らしいし、また時折見せるギャグキャラ的振る舞いはキュートとしか言いようがありません。

団地に閉じ込められた結果「(早く帰りたいから)何でもするからぁ~!」と泣き崩れるあたりはまさに「小学生!!わかる!!何でもするからとか言ってたわ!!」と感動すらさせられました。ともするとそんなに大人びてねーだろってツッコミたくなることが多い小学生モノの作品の中では、かなりリアルに小学生していたと思います。
それにしてもこういうガキんちょって趣のキャラクター、昔は得意じゃなかったんですが年々かわいげを感じてきている自分に時の流れを感じざるを得ません。
 
 
作画、背景、劇伴(ずとまよ助かりすぎる)と個々の仕事の丁寧さが光る本作ですが、イマイチノリきれなかったという感想もまあまあ流れてくるんですよ。
それは似たようなことを自分でも感じてまして、その理由のひとつに現実/非現実の境界がかなり曖昧に話が進んでいくところにあると思っています。
 
序盤で団地の屋上にみんなが集まり、一悶着あって文字通り滝のような雨が降り注いだ後、あたり一帯が海となって団地の「漂流」が始まる。非現実的な場面によって明確に場面が変わったと理解できるシーンです。
その後プール施設や百貨店の廃墟といった、夏芽の過去に紐づいたものばかりが漂流してくるので、一見すると夏芽の精神世界に他の登場人物が迷い込んだファンタジーもののように見えます。しかしキャラクターたちはしばらく「これは夢だ/夢じゃない」という押し問答を繰り返し、また食べ物に困窮するシーンもかなり長めに描写されるため、鑑賞側としては異界(=現実の基本原理が通用しない世界)なのか現実の延長なのか(=餓死しかねないようなリアルな世界)、イマイチ判断しきれないまま話が進みます。
 
キャラクターデザインもかわいげがあるのでもっと二次元的な作品だと思って鑑賞に臨んだのですが、実際のところはファンタジー世界で小学生にガチのサバイバルをやらせるという想像よりずっと重い話でした。
劇場では未就学児前後くらいの子どもたちもいくらか見かけたのですが、彼ら/彼女らがどういう感想を持ったのか少し心配です。
 
そうしたかわいげのあるキャラクターたちがバンバン怪我するんですよ、この映画。
転んで床に放置してある賞状のガラスを膝で割る(マジでこれが一番痛そうだった)とか、崩れた団地から落ちて頭打って流血した上にしばらく気絶するとか、マジでハードな描写が多いです。
特にこの気絶した子を巡ってほかの女子同士で言い争うシーンとかきつすぎて吐きそうでした。
 
「これは異界の話だから、本当に死んだりしないだろう」という意識の下で鑑賞できていればそこまでストレスに感じなかったと思うのですが、「舞台設定は異界なのにキャラクターたちは生身なんだ…」という意識で鑑賞してしまったがために、彼らの行末が鑑賞に支障が出るくらい本気で心配になってしまいました。
また団地への断ち切れない思い、航祐とそのおじいちゃんへの後悔の念といった課題を、自身も家庭環境が穏当とは言えないヒロインの夏芽ひとりに抱えさせるのもなかなかヘビーな設定でした。
 
石田監督は本作のさまざまなインタビューやパンフレットで劇場版ドラえもんの存在が自らの中で大きいことを述べているんですが、確かにその影響を大きく感じる構成になっています。
上記のインタビューではこのように述べています。
 
ペンギン・ハイウェイのインタビューなどでもよく言っていましたが、僕は子どもの頃『ドラえもん』の劇場版を観ていた影響が大きいと思います。『ドラえもん』の劇場版の物語って、言ってしまえば子どもたちが漂流しているようなものだと思うんです。のび太たちが異世界に行って帰ってくるわけですから。
 
確かに本作も「異界に行って帰ってくる」話で、これはグリム童話などの大昔から続くストーリー展開の基本形です。
しかし『ドラえもん』と異なり、『漂流団地』はまず現実世界のリアリティライン―どれだけ鑑賞者の世界に近い道理の世界か―がかなり高めに設定されています。
 
御存知の通り『ドラえもん』ではのび太たちのリアリティラインはそこまで高くありません。しかし『漂流団地』ではスマブラやディズニー、ブタメンなど実際に存在する固有名詞が冒頭で多数出てくるため、本作の世界や登場人物が鑑賞者と地続きにある存在のように感じられます。
結果として『漂流団地』のキャラクターたちが我々とほぼ同じ存在のように感じられるようになっているのですが、これが前述したケガ描写などの過度なストレスに通じているように感じます。
 
ドラえもん』でも『夢幻三剣士』のようにのび太やしずかちゃんが死亡するようなシーンもあるのですが、魔法で灰になるというファンタジー演出に留められており、ショッキングではあるものの非現実的であると理解できるラインになっています。

魔法で一瞬でやられるのび太(後で復活します)
この記事はたまたま『竜とそばかすの姫』地上波放送の直後に書かれているのですが、こちらも実際の地名や緻密な背景描写によって高いリアリティラインを保持していることが、終盤の展開への「いやそうはならんやろ」という多くのツッコミを呼んでいるように思われます。
作劇の技術向上と共に非常にリアリティの高い映像が提供されていることはとても喜ばしいですが、こうした現実と見間違うような設定が物語の展開自体に縛りを与えかねないものでもあるように思えてきています。
 
一方で映画ではありませんが、ほぼ現実の東京(江東区あたり)を舞台にするTVアニメ『リコリス・リコイル』は一部の設定や展開のガバさにツッコミが入るものの、概ねそれも味のひとつとして受け入れられている様子です。
 
ある程度ゆるい現実観の上に成り立つ物語の方が、実は鑑賞する方にとって素直な楽しみを与えてくれるのかもしれません。
そういった意味では、決してリアルさや緻密さが売りでなくとも面白い作品はいくらでも生まれてくる余地があるように思えます。
 
今日言いたいのはそれくらいです。

【告知】負けヒロイン合同誌「Blue Lose」寄稿とサンプル公開

早稲田大学負けヒロイン研究会@LoseHeroine_WSD初の会誌となる「Blue Lose」へ寄稿・主催との対談を掲載いただくことになりました。

下記の通り、5/29の文学フリマにて頒布予定です。

 

 

かつて負けヒロインは散発的にインターネットで観測される程度の嗜好でしかありませんでした。しかしここ10-15年で確実にひとつのコンテンツジャンルとして成長し、またその嗜好を自認する人間が増えてきています。

その結果のひとつとして昨年から発足した本研究会があります。

主催の舞風つむじ氏@maikaze_tumuzi のおかげで、これまで言語化してこなかった負けヒロインとは何か?という根源的な問いについて改めて振り返る機会をいただきました。

大学の研究会誌ですので、主体である学生の皆さんがアクセスしづらい、また体験していなかったであろうゼロ年-テン年代前後の私見を提示しています。

今後の負けヒロイン研究の参考資料となれば幸いです。

 

またこれに合わせて、本誌に寄稿した原稿の冒頭を公開いたします。

本稿以外にも素晴らしいアイデアが詰まった寄稿が届いていますので、おそらく世界初の負けヒロイン概論を御覧ください。

 

***

私論:負けヒロイン、その起源について

 

D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

-Eugène Henri Paul Gauguin

 

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』

-ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン

 

***

Chapter 1:我々はどこから来たのか

 

「お前が好きになるキャラ、だいたい不憫になるよな」

 

負けヒロインというワードが一般化する前、気がつくと私は「不憫女子愛好家」を名乗っていた。今見ても最悪な字面だが、当時はそう名乗るしかなかった。

2008年放送『とらドラ!』の川嶋亜美、2011年『魔法少女まどか☆マギカ』の美樹さやか、そして2012年の『あの夏で待ってる』の谷川柑菜…2010年前後のコンテンツによって形成された「不憫好き」は、インターネットの片隅で奇異な目で見られる異端嗜好だった。

そのうちキャラデザや担当声優で不憫キャラを目利きできるようになったが、自分の気に入ったキャラを表明するとインターネットからは「私の推しを不幸にしないで」という言葉をいただくようになってしまった。とんだ誤解である。

あれからおよそ10年、2021年8月に「早稲田負けヒロイン研究会」発足のツイートが流れてきた。

Fig.1 負けヒロイン研究会のツイート

 

ついに時代が動き出した。テン年代から負けヒロインを孤独に愛好してきた身として、長い冬が開けたような気持ちだった。

ついに負けヒロインも一般性癖と呼んで差し支えない時代がもうそこまで来ているのだ。

 

それにしても負けヒロインとはなんなのか。

「幼馴染は負ける」

「青髪キャラは負ける」

「金髪ツインテも危険」

こうしたインターネットミーム的な概念はどのように萌芽し、今日の隆盛に至ったのか。

本稿では負けヒロインというワードが膾炙するまでのきっかけの一端を、個人的な主観を多分に交えながら探っていきたい。

 

まずはGoogleトレンドで「負けヒロイン」の動向を探ってみる。

既に経済系Vtuberの夜須田舞流さんが類似した調査を先行しているので参考されたい。

note.com

驚いたのは自分自身でブログに2014年時点で「負けヒロイン」というワードを使用していたことだ。ここで引用されるまで完全に失念していた。

 

本稿でも改めて「負けヒロイン」をトレンド検索してみる。

すると本記事執筆時(2021年12月前後)では以下のようになった。

Fig.2 Googleトレンドに見る「負けヒロイン」の注目度(2004/01/01~2021/12ごろ)

 

2012年の急で大きな山と、2020年の中程度の山が見られ、その後は上下しつつもある程度常に検索されている模様だ。

2012年の負けヒロインといえば前述した『あの夏で待ってる』の谷川柑菜である。

「谷川柑菜」について比較してみると、グラフはほぼ同じタイミングで2012年に山を迎えている。

Fig.3  Fig.1と同範囲での「負けヒロイン」と「谷川柑菜」の比較

 

もちろんこの比較だけで谷川柑菜のトレンド上昇が負けヒロインのトレンドを押し上げたと結論づける気はない(逆も然り)。

しかし谷川柑菜のpixiv百科事典とニコニコ大百科がいずれも2012年3月に作成されており、『あの夏で待ってる』、ひいては「谷川柑菜」の注目度が確実に上昇したタイミングであることは確かだ。

谷川柑菜の負けヒロインぶりについては「あの夏で余ってる」といったネットミームが生まれたり、まとめサイトでネタになっていたことからも十分に確認が取れる。

以上のことから負けヒロインと谷川柑菜には一定の関係があると推定したい。

 

2020年3月の山は『勇者様の幼馴染という職業の負けヒロインに転生したので、調合師にジョブチェンジします。』のコミカライズによるものと推測する。なお本作の原作は2018年からweb公開されている。

負けヒロインと本作のトレンド比較は以下の通りである。見やすくなるようにグラフの範囲を2016年からに変更している。

谷川柑菜と同様、作品と負けヒロインのトレンド上昇が比例しているのがわかる。

Fig.4 「負けヒロイン」と『勇者様~』の比較(2016/12/ごろ~2021/12ごろ)

 

2021年にも山が見られ、これは同年7月に発売されたライトノベル『負けヒロインが多すぎる!』の影響と推測するが、まだ蓄積が少ないのかGoogleトレンドではうまくデータが取得できなかった。

ここではあくまで個人的な推測にとどめておく。

 

以上のように、負けヒロインというワードの認知度は特定の作品群によって広まった可能性が高い。特に本稿では『あの夏で待ってる』と『勇者様の幼馴染という職業の負けヒロインに転生したので、調合師にジョブチェンジします。』が負けヒロインの認知度向上に一定の貢献があったと結論づけたい。

 

もちろんここで見つけられなかった事象が負けヒロインのトレンドに寄与した可能性は十分にあるが、現時点では2012年を負けヒロイン元年と位置づけ、本稿での話を進めたい。

 

・インターネットを発掘する

前述のとおり、「負けヒロイン」は2012年に勃興したと見て差し支えなさそうだ。

しかし『あの夏』の影響が見込まれるとはいえ、「負けヒロイン」が含意する概念そのものが突然現れたとは考えにくい。2012年までに「負けヒロイン的な概念」が少しずつ集積し、2012年前後に「負けヒロイン」というワードに結実したと考えるのが自然だろう。

そこで2012年以前のインターネットにフォーカスして検索を続けることにする。

 

完全一致で"負けヒロイン"を期間指定(Googleトレンドの検索可能な範囲に合わせて2004/01/01/~2012/01/01)で検索し、負けヒロインに言及しているページを確認していった。

この際、アフィリエイトページに掲載されている最近の負けヒロイン作品がひっかかってしまうため、適宜作品で除外検索をかけながら調べていった。

 

最も古いページではBLEACH井上織姫アンチスレ(2007年)で「負けヒロイン」のワードが見つけられた。しかしこれは「設定負けしているヒロイン」の略称であったため、今回の調査からは除外した。

【ダメだ】BLEACH井上織姫アンチスレ36【やっぱり気持ち悪過ぎるや】

これを踏まえた上でさらに調査した結果、興味深いページがいくつか見つかった。

新しい順に掲載する。

 

・【俺妹】高坂桐乃 茶82と黒髪どっちがいい?(2011年10月)

【俺妹】高坂桐乃 茶82と黒髪どっちがいい?

Fig.5 当該スレ325

人気ラブコメ作品『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』のヒロインのひとり、高坂桐乃についての単独スレッド。

本スレッドの325で桐乃アンチが「負けヒロイン」というワードを使用している。文中の「最萌」とは当時ノンジャンルで行われていたキャラクターの人気投票企画「最萌トーナメント」のことと思われる。

 

『俺妹』はメインヒロインに主人公の実の妹を据えるというセンセーショナルな設定を置きつつも、他にも魅力的なヒロインを多数登場させた。一方でキャラ派閥による闘争が絶えなかった作品でもある。特に物語前半は黒猫こと五更瑠璃と呼ばれるキャラが人気を博し、高坂桐乃は殺伐としたキャラ闘争の果てに負けヒロインと呼ばれるに至ったようだ。

 

戦場のヴァルキュリア3 人気投票 結果発表(2011年2月)

戦場のヴァルキュリア3 人気投票

個人サイト「春が大好きっ」内で行われた、ゲーム『戦場のヴァルキュリア』のシリーズ3作目のキャラクター投票ページ。個人サーバーでこうした応援サイトを持っていることは当時は主流だった。

 

ダブルヒロイン形式だった本作で「もう一人のヒロイン」と形容されるイムカについてのコメントに「負けヒロイン」が登場した。他のコメントにも「負け」というワードが散見される。

応援コメントのゼロ年代感が心にしみる。

Fig.6 当該ページのコメント欄

そして以下のページが、今回調べられた限りでの最古「負けヒロイン」である。

 

・伝統攻撃 (2009年10月)

伝統攻撃 トロピカルKISS 感想

RmG氏が管理する個人ブログ。

本ページで、PCゲーム『トロピカルKISS』に登場する氷室立花(正しくは氷室立夏)というキャラクターの紹介で「負けヒロイン」というワードが使われている。

Fig.7 当該ページの該当箇所

本件を深耕する前に、少し2009年前後のインターネットを振り返ってみる。

国内SNSとして初めて広く認知されたmixiの存在感が落ち着きはじめ、twitterが少しずつ認知度を広めていった時期である。またスマートフォンへの移行期でもあるが、富士通東芝の国産スマホが悉く失敗し、ソフトバンクの独占販売だったiPhoneが急激にシェアを伸ばした時期だ。

つまり現代と比べて、まだパソコンの前でインターネットをするのが主流であった時代にあたる。個人サイトやブログに誰かがアップロードしたページを、誰かが非同期的に閲覧するのがこの頃のインターネットだった。手元でリアルタイムにコミュニケートできる現代からすれば、だいぶスローなインターネットである。

 

ユーザー各々がブログを持ち、リアクションは少なくともゲームレビューやアニメ感想を公開するのは個人商店の集まりのようであった。個人商店では何を売ろうが自由である。この自由さがなければ今回の記事も見つけられなかっただろう。

 

さらにRmG氏にこのページで紹介されている「氷室立花」は本当に負けヒロインだったのか、不躾ながらご本人に質問することができたので以下に掲載する。

RmG氏には大変ご丁寧に対応いただき、12年前のゲームを再プレイして確認されようとしたが、残念ながら現物が見当たらず叶わなかったとのこと。

よってご本人からも以下の回答は記憶を頼りにした曖昧なものであり、一個人の印象に頼った内容であることを申し添えられている。その点を留意した上でご覧いただきたい。

 

以下がこちらからの質問内容になる。

・氷室立夏は「明らかに勝負が決まった後もアプローチを続ける負けヒロイン」とのことですが、これは他のヒロインとの恋愛勝負に負けてしまうエピソードがあるという意味ですか?(主観で結構です)

・氷室立夏は青髪ショートヘア、スレンダー体型と現代の負けヒロインにも通じる特徴があるキャラクターです。

あまり当時のPCゲームに明るくないのですが、本ゲームが発売された当時、他のゲームでも同様のキャラクターは存在していましたでしょうか?

・もし印象に残っている負けヒロイン(的なキャラ)がいましたらご紹介ください。

Fig.8 氷室立夏立ち絵(作品公式サイトより)

 

以下がRmG氏の回答になる。

***

 

トロピカルKISSは過去にフラグを立てた結果ヒロインの好感度は最初から全員MAXです

攻略ルート確定後も諦めず他のヒロインがアプローチをするタイプの話になっています

 

その中で立夏は肉体関係もあり、物語開始直後はお隣さんと一番近い関係だったということで

他のヒロインと比べて高いアドバンテージを持っていたヒロインになっていました

それはメインヒロインでもある幼馴染である花火に対してもで、見方によっては花火以上に

優遇されているように見えるヒロインとなっている、と当時は感じていたと思います

 

それ故に、ルートから外れたときの反動は強く、特にライバルの花火ルートでは際立ち

本人の表面的なクールさと、情の深さからくる行動の重さの空回りのギャップもあって

当時は、負けヒロインとしての描写が際立っていると感じたのではないかと思います

(尤も、コメディ色が強い作品なので引きずる話ではないと注釈を入れておきます)

 

曖昧な記憶で、憶測も交えた話となりますが現状でお話できるはこのレベルになります

もしかしたらかなり見当違いなことも言っているかもしれません

 

他の作品といえば具体的な名前は出ませんが、クールな性格故に損な役回りになるヒロインが

ある種の定番だなと色々なゲームをする上で勝手に思い込んでいたのかもしれません

 

***

RmG氏の回答から推測するに、氷室立夏は別のヒロインの攻略ルートで負けヒロイン的な立ち回りを担っていた様子である。

突然の声掛けにも関わらず、ご丁寧に対応いただいたRmG氏にはここで改めて感謝申し上げます。

 

以上の結果から、少なくとも本稿ではインターネット上で特定のキャラクターが「負けヒロイン」と形容されたのは2009年10月、RmG氏の個人サイト「伝統攻撃」での「氷室立夏」というキャラクターから、と結論づけたい。

もしこれ以前のインターネット上での負けヒロインへの言及、また書籍や雑誌などで見かけたという情報があれば是非お知らせください。

 

ではこれ以前には負けヒロインは存在しなかったのか?

次章ではさらに私的な考察を進めることとする。

***

 

続きはぜひ本誌でお楽しみください。

 

始まりは青い色

米津玄師 / 灰色と青( +菅田将暉

 

 

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