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「理論と実証」について考えるときに、しばしば忘れられてしまうのは、理論と実証以前に、その両者に意味を与えるもっと大事なことがある、ということです。それは「問題関心」です。そして多くの実証研究は、この問題関心から出発しています。階層研究であれは公平性、都市研究であればコミュニティの価値、などが一例になるでしょう。そういった(根本的には日常の社会生活に根ざしている)問題関心があるからこそ、それに関わる問を立て、答えていくという研究活動が成立するわけです。ほとんどの実証研究はこの枠組みに沿って行われているはずです。(そうではないものはちょっと想像しにくい。) 要するに、研究は実証するために行うものではありません。理論を構築するために行うものでもありません。理論を実証するために行うものでもありません。特定の問題関心から発する問いに、説得力をもって答えるために行うものです。(だから、日常的なコミュニ
id:gothedistance氏の Twitterについての雑感 http://d.hatena.ne.jp/gothedistance/20090914/1252860041 のコメント欄で、id:y_arim氏とid:llcheesell氏の会話が興味深かったので、自分の考えをまとめてみた(以下敬称略)。 id:y_arimが > Removeは悪でもないし、人格否定でもなんでもないですよ。Removeするなんて信じられないと言っている人のほうが僕は信じられない。 > 中の人と中の人の言動やPOSTがうざいってのは別問題 この感覚がまるで理解できないのだよなやっぱり……。どうやったら「言動の否定」(見たくない、とremoveするのはそういうことだと思う)と「存在の否定」を切り離せるのか。 というか、それくらい気軽に会ったりremoveできたりする相手というのは、いったいどれくらい自分
7月頃、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 」に関する原稿を書いたのですが、諸事情につき刊行されない運びとなったとのことなので、せっかくなのでウェブサイト上にアップしたいと思います。約8,000字です。 ■ 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下、『新エヴァ』と略す)の総監督である庵野秀明は、いまから約三年前にあたる二〇〇六年の九月に、同作品を制作するにあたって「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」と題された所信表明を公開している(注1)。そこでは次のように書かれていた。なぜいまエヴァの再映画化を手がけるのか。それは「疲弊しつつある日本のアニメーションを、未来へとつなげたいという願い。蔓延する閉塞感を打破したいという願い」を実現するためである。もちろん、いまさら十年以上も前の作品を映画化するのか、という思いはある。事実、「エヴァはもう古い、とも感じ」る。しかし、庵野はこうも断言している。「この
著者は有名な経済ブログ、Marginal Revolutionの管理人。彼もインターネットの現状について怒るのは、「バカが多すぎる」ということだ。したがって今後のウェブの進化のフロンティアは、下らない情報を排除して必要な情報だけを見るしくみをつくることだろう。私が日常的に見るウェブサイトは、自分のブログと「アゴラ」以外は、RSSリーダー(20ぐらいしか登録してない)とグーグルニュースぐらいで、これで95%の用は足りる。著者も、FacebookやTwitterなどの新しいテクノロジーは、必要な情報だけを見る方向に進化しているという。 この傾向を彼は自閉症(autism)と表現する。これはかつては治療の必要な病気と考えられたが、最近では多くの人に共有される性格の一種と考えられている。人間関係がうまくいかないので社会的活動には支障をきたすことがあるが、逆に他の人間と共同作業する必要のない芸術家
2008年11月25日05:30 カテゴリ書評/画評/品評Love 四半世紀後のために、今日読んでおくべき一冊 - 書評 - 貧困のない世界を創る とてつもない。 貧困のない世界を創る Muhammad Yunus / 猪瀬弘子訳 [原著:Creating a World Without Poverty] すごい人だとは知っていたつもりだったが、すごいを通り越してとてつもない人だとしか言いようがない。よって本書はスゴ本ではなく、トテツモ本である。 本書で確信することが出来た。 貧困のない世界は、夢ではなくヴィジョンなのだと。 本書「貧困のない世界を創る」は、2006年ノーベル平和賞受賞者である著者が、小は自ら、大は人類全体の現在、過去、そして未来を語った一冊。 目次 - 貧困のない世界を創る:ハヤカワ・オンラインにないので手入力 プロローグ 始まりは握手から 第一部 ソーシャル・ビジネスの
Rauru Blogの「確かに、まず日本語ではあるが」に引用されていた、以下の言葉にピンとくるものがあった。 <したがって結論として言えば、私は単純に日本語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日本語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日本人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日本語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う>。 私も、日本語は
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