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哲学者P・M・S・ハッカーが序文をよせている、社会学者ジェフ・クルターとウェス・シャロックの著書『現代認知科学における脳、心、人間行動』は心の哲学者には読まれないんだろうか? という@friendsrootsさんのツイートに始まった一連の流れをまとめました。 ツイートを採録させていただいた方々(登場順/敬称略) @friendsroots :社会学(ジェンダー論、法社会学、理論社会学) @contractio :会社員 続きを読む
2010年07月13日23:13 カテゴリ 痛みは個人的なものか 「私の痛みは他人にはわからない」 誰にもそう思うことがあるだろう。だから「私の痛みは個人的」なもので、他人からはのぞき込めないような、私の中に隠された私だけの体験なのだと思う。 ジェフ・クルターという人が「心の社会的構成:ヴィトゲンシュタイン派のエスノメソドロジーの視点」という本で、この「常識」を覆そうと頑張っている。 クルターさんの言いたいことを理解しようとすると、こんな話らしい。 痛みも含め、通常私の心の内容と考えられるようなもの、私の中にあって他者には接近できない「私だけのもの(私的なもの)」として「心」を考えるというのは誤った理解に基づく幻想に過ぎないのだ。私達は他者の痛みという問題にも、本人同様にそれを理解する資格を持っている。なぜなら痛みという概念はその人の中に隠されたものから生まれるのではなくて、そもそも人々の
朝食。なにも読む気がしないときのハイデガー。 有と時 (ハイデッガー全集) 作者: M.ハイデッガー,Martin Heidegger,Hartmut Buchner,辻村公一,ハルトムートブッナー出版社/メーカー: 創文社発売日: 1997/12メディア: 単行本 クリック: 1回この商品を含むブログ (6件) を見るぱらぱらする。 第一批判においては「見て*物を知る」(認識する)ことが問題になっている。我々は、感性的に与えられたものが概念的に加工される、という仕方で 物を知る。見て物を知るときに、そこでどうしても使われざるをえないもの──たとえば「原因」/「結果」といった概念──が、カテゴリーと呼ばれる。 物が与えられるには それらがどうしても使われざるをえない ということも、「原因/結果」というのがそういうもの(=カテゴリー)であることも、このどちらもが、「見て知」られるわけではない
論理文法って何かしらー。とりあえず引用だけしておく。 コンチェルトの例が何だかわからん。 『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』 ジェフ クルター (著), Jeff Coulter (原著), 西阪 仰 (訳) 新曜社、1998 ■ その1 心にかかわるふるまいの諸概念・諸述語が論じられることになるわけだが、その分析にあたり、まずは日常的な情況においてことばが、どのようにしかるべきしかたで使用されているかを、丹念に調べることから出発しなければならない。それぞれの概念は一定範囲の他の諸概念とは有意味な・理解可能なしかたで結びつくのに、別の諸概念とはそのように結びつくことがない。様々な概念について、それぞれの概念がどの概念とどう結びつくのかを示すこと、これが論理文法分析の目標である。論理文法は、「弁別的」とか「必要にして十分」とか「本質的」といった諸特徴の一覧表に
先住民の知識人類学―ニュージーランド=マオリの知と社会に関するエスノグラフィ 作者: 伊藤泰信出版社/メーカー: 世界思想社発売日: 2007/03メディア: 単行本この商品を含むブログ (5件) を見る ∋oノハヽo∈ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ^▽^) < 出版おめでとうございま−す♪ = ⊂ ) \_______ = (__/"(__) トテテテ 目次 序論 構造的変動の歴史とマオリ個別の知の発現 原住民学校からマオリ個別の教育へ マオリ個別の教育: クラ=カウパパ マオリ個別の学: マオリ学 人類学とマオリ、マオリ学 マオリ個別の知をめぐる言明と実践 結論 伊藤泰信さんのウェブサイト:http://www.jaist.ac.jp/ks/labs/itoyasu/index.html http://www.jaist.ac.jp/profiles/info.php?profile
よく学生に聞かれ答えに窮する質問;「実践」って何ですか? 一応「自然言語の記述を問う水準において一切の人間活動に言及することば」などと答えるが、しっくりしない。というか、肝心のことが説明されていない。この説明しきれない感じ、これは何だろう。 記述が実践を‘可能化する’と一応は言える。EMはこの記述を記述しようとしているというのは、EMの説明としてありだろう。 しかし、この説明があまりに前面化されると、いろいろと不都合を起こす。経験を支える言語的基盤の解明というのは言い古されている。ここで、下手に記述と実践の循環性(相互決定性)などを持ち出しても、それもまた言い古されている(フーコーの誤読も大概この手の誤読だろう)。新しいことを言っているつもりで言い古されたことを反復していることがどれほど思想の歴史において多いことか!言い古されていることと似ているけど、違うことを語っているのだなどという主張
Jeff Coulter, "Contingent and A Priori Structures in Sequential Analysis", HUMAN STUDIES, Vol. 6, No. 4, 361-376, October 1983. 8周回目。現時点での大ざっぱな疑問点を大ざっぱにメモっとくと。 「直感的」にいって、次の二点に違和感を覚える: 「アプリオリ」と「偶然的」が──併置ではなく──対置*されている箇所があること。 この論文の中で、<偶然的/必然的>という対比**が(ほとんど)用いられていないということ。 そして、たぶんこの二者は相即している。 * ただし*****をみよ。 ** あるいは別の様相規定のペア──<可能的/偶然的>、<可能的/必然的>──でも良いのだが。しかしどれをとっても、つまるところ三者は*1、 【Pは必然】≡【Pじゃないことは不可能】(¬◇
Jeff Coulter, "Contingent and A Priori Structures in Sequential Analysis", HUMAN STUDIES, Vol. 6, No. 4, 361-376, October 1983. 6周回目。 神がクワインを遣わす以前の──カントのことは忘れておくとして──「アプリオリ〜分析的〜必然的」/「アポステリオリ〜総合的〜偶然的」というゆるい語法、 tab.01: ゆるい区分 必然的 ア-プリオリ 偶然的 ア-ポステリオリ ここに、「経験主義のドグマ」以降──というわけでもないが──、隙間↓ができる。 tab.02 A ア-プリオリ ア-ポステリオリ B 必然的 (ゆるくオッケー) アポステリオリにして 必然的▼ 偶然的 アプリオリにして 偶然的◎ (ゆるくオッケー) そしてクルターの論文タイトルが狙っているのは、◎のセルだ
戸田山和久「ウィトゲンシュタイン的科学論」 in 岩波講座 現代思想〈10〉科学論 作者: 新田義弘出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1994/12メディア: ハードカバー クリック: 18回この商品を含むブログ (11件) を見る マイケル・リンチのどこがどう偉いか、というのが、初学者にもよくわかる論文。 注の27は、タイプして書き写す価値がある(ので する)。 [‥] ウィトゲンシュタインの議論を懐疑的パラドクスの提示とその解決というクリプキ流の路線で理解している ブルアASIN:4326152125 に対し、リンチは逆にウィトゲンシュタインの議論はそうした懐疑論を斥けるための背理法を構成しているのだとする。これはリンチ自身認めるように、ベイカー&ハッカーやシャンカーの解釈に近い27。 リンチによれば、この背理法のポイントは、(プラトニズム的な対象として考えられた)規則が我々の行為
いよいよレジュメをつくらないといけないよ。 なにはともあれ一気読み再度。 まずは。 90年代の論考からは(少なくとも表向き)消えてしまったようにみえるモチーフについて をピックアップ。 1979「数量関係・組織・意思決定・利害関心」 http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060806/1154809863 ドイツ経営学の三つの主要な流儀は、グーテンベルグ経営学経済学、カーネギー学派流の意思決定論(〈人間行動+意思決定〉のシステム論)、そして、両者に批判的なグループである。 第2グループが指摘するように、第1グループは、量的最適化を求める意思決定の論理学に帰着し、 第3グループが批判するように、それは資本指向的であって、被用者の利害関心を正面から採り上げることがない。[大意:p.176] すなわち従来の理論は、システム管理者・システムの維持と存続を有利とする人
The Grammar of Schizophrenia, in W. F. Flack, D. Miller, and M. Weimer(eds.) What is Schizophrenia?, Springer-Verlag, pp. 161-71. Ian Hacking 1999 "Madness: Biological or Constructed?" in Social Construction of What?(Harvard U. P. )の寄り道として読んでみた。ほんらいスタンスの比較などができればいいののだけれど、うまくまとまらないので雑多なメモとして、論述の流れと印象を記しておく。 これは所収の論集の他論考へのコメントとしてなされた議論で、とはいえ基本的前提はThe Social Construction of Mind(『心の社会的構成』)の第8章(邦訳では第6
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