哲学的なSFを教えてください。 作者とタイトルだけでなく、テーマや、ちょっと内容紹介も。 イーガンの短編をちょっと読んで、他にもこんな哲学的なのあるのかなと、興味を持ちました。
哲学的なSFを教えてください。 作者とタイトルだけでなく、テーマや、ちょっと内容紹介も。 イーガンの短編をちょっと読んで、他にもこんな哲学的なのあるのかなと、興味を持ちました。
「コーヒーとミルクとが何対何の比率で混ざったカフェオレが、最も美味しいカフェオレか?」──この形式の問いに短絡的な答えを出してしまうもの、それが当然の常識であり、守るべき道徳であり、愚にもつかない神話である。 最も美味しいカフェオレ、それは何か宗教的でさえある。仮にカフェオレの美味しさがコーヒーとミルクの比率だけで表せるとしても、好みの違い、状況や時間的な差異などの要因によって、その「最良の」比率は当然変化する。単純にミルクが嫌いな人もいるし、逆の人もいる。十分前にコーヒーを三十杯も飲まされた人にカフェオレを勧めれば「ミルク多めにしてください」と涙目に懇願するかも知れない。コーヒーとミルクの理想的な比率は、決して初めから客観的に与えられたり、普遍的に妥当するものでないことは明らかだ。どんな基準(誰が、何に対して、どのくらい、など)で解釈するかによって判断や評価は変化するのであって、一つの基
珈琲とモノクロ写真『クリティカル進化論』の著者の1人である道田先生の読書と日々の記録が興味深く、よく参考にしている。昨日も、ここで紹介されている西岡常一『木のいのち木のこころ(天)』を読んでみた。 「読書と日々の記録」を眺めていると、道田先生は、知性主義・教養主義・文字の文化という軸と、反知性主義・反教養主義・声の文化という軸を考えておられるようである。なお、これは単純に二項対立的な関係ではないらしい。読書と日々の記録からもリンクが張ってあるが、中村宗悦氏の『アメリカの反知性主義』の書評によれば以下のようなものである。 「反知性主義」とは,単に無知蒙昧を擁護する立場ではなく,平等主義,実用主義,実践主義として現れる心的姿勢と理念であり,知性と知識人に対する憤りと疑惑となって現れる。このような意味での「反知性主義」は普遍的な性格をもつ。 『木のいのち木のこころ(天)』を読んだばかりだったので
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 自分で物事を考えて答えを出すということができない人というのがいる。「思考停止」なんて言葉もあるけど、そういう人たちにとって「停止」は動いていた状態からの変化を示す"stop"ではなく、そもそものはじめから思考がスタートしていない場合が多く、最初から思考が働いていない。 そうした人たちに共通するのは、メタ認知ができないこと、抽象的な思考を苦手とすることだとだと思います。見たまんまのことしか考えられない。だから、手法を扱えないし、戦略的な話ができない。 そうした人びとは、抽象的な記述や理論的な話題に対する想像力が著しく欠けていて、それが世界の記述であることをイメージできずに、すぐに「具体的な事例がないとわからない」という。それが自分のメタ認知や抽象的思考力の欠如からくる想像力の
文章で難しいことを書くのが苦手&面倒な人間なので、「文章では思ったことを全部書こうとしない」と心に決めて生きている者です。 だから言えるのですけど、「難しいことを素人にも分かるように平易な言葉で説明できるのが本当に頭のいい人間だ」みたいな言い方がありますよね。あれはある程度まで本当ですが、本質的にはマヤカシ、詐術です。 「難しいこと」を、「一見小難しいけど実は素人にも見透かせること」に引きずりおろそうとする、つまり知の格差に嫉妬する素人に幻想を売る、小賢しい言説です。 やっぱり本当に複雑なことは、十分複雑にしか言語化できません。 一番簡潔な記述を使ってもなお分かりにくいから「難しい」んです。 そこについていける思考力(コース取りの正しさ、振り落とされないスピード)を「頭の良さ」と言って、それを否定すること、無理やり斜めから見ようとすること、は、学問的手続きに則った研究の積み重ねによって支え
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く