『逃げ恥』『シン・エヴァ』…「リテラシーが低い人を差別しない」作品が時代を制する

「オープンワールド化」する作品たち

【映画を早送りで観る理由 #1 説明過多の時代 後編】

先日、映画やドラマやアニメを倍速視聴、もしくは10秒飛ばしで観る習慣に対する違和感を、記事「『映画を早送りで観る人たち』の出現が示す、恐ろしい未来」に書いたところ、驚くほど大きな反響があった。

中でも特に議論を呼んだのが、倍速試聴や10秒飛ばしが増えた理由のひとつとして指摘した、「セリフですべてを説明する作品が増えた」ことである。前編「映画やドラマを観て『わかんなかった』という感想が増えた理由」に続いて後編では、そのような傾向が生まれた背景についてさらに深掘りしたい。

-AD-

説明過多なアニメが増えている

インターネット史やオタク文化研究などをテーマにした講演や執筆活動を行う、博報堂DYメディアパートナーズ メディア環境研究所の森永真弓氏は、説明過多なTVアニメが増えた理由について、小説投稿サイトの存在を挙げる。

たしかに、「小説家になろう」「カクヨム」「アルファポリス」といった小説投稿サイトで人気を得た作品がTVアニメ化されるケースは、ここ数年増えている。

「昔、小説家が読者から感想をもらう手段は手紙でした。ですから、作家の創作スタンスを迷わせるようなものは、編集者が作家本人に見せないようにすれば済みました。でも小説投稿サイトの作家は、サイトやSNSで読者から直接感想が届きます。その数は手紙の比ではありません」(森永氏)

そこには当然、「わかんなかった(だから、つまらない)」といったネガティブかつ安直な内容も、たくさん含まれている。

「人気作家であればあるほど、“説明不足だ”“理屈が通ってない”といった鋭い突っ込みを受けたり、叩かれたりということを多く経験しています。すると作家としては、『次の作品こそ、つつかれどころのない作品にするぞ』という気持ちになりやすいので、作を重ねるごとに作品がどんどん説明過多になっていく。それがアニメ化されれば、当然、説明セリフも多くなります」(森永氏)

読者や視聴者に楽しんでもらうのがエンタテインメントの目的だとしても、読者が要求するものを、ただそのまま供給するのは、ただのポピュリズム(大衆迎合主義)だ。不倫報道で売上部数を伸ばそうとする週刊誌や、中身はなんでもいいからとにかくPVを稼ごうとするネット記事と、志の低さという意味ではさほど変わりない。それが資本主義だというのなら、特に反論はないが。

「もうひとつ、スマホゲーム原作のTVアニメも、説明セリフが過多になる傾向にあります。なぜなら、出資元であるゲーム会社の最終目的は、ゲームをダウンロードしてプレイさせること。彼らにとって、アニメ本編はゲームのチュートリアル(入門的な位置づけ)ですから、説明的にならざるをえない。

要するに、1クール12話なり13話なりをかけて、自社のゲームを理解し興味を持ってもらえるコミュケーションをしているんですよね」(森永氏)

-AD-

なぜテレビは「テロップ」がやめられないのか

説明過多といえば、テレビのバラエティ番組や情報番組だ。今は何のコーナーで、何が行われているか。次に登場するタレントは誰か。そういったインフォメーションが、常に画面の上部・下部・四隅にテロップとして出ている。情報の洪水。

しかし、これにも理由がある。

「テレビマンは常に、同じ放送時間帯の他番組や、番組全体として視聴率が良い番組を、非常に細かい時間単位に区切って研究しています」(森永氏)

ここで重要なのが、彼らは「視聴率が上がるのは色々な要素が複合的に作用していると考えるが、視聴率が下がるのは自分たちの責任だと考える」(森永氏)点だ。

つまり、今までチャンネルAを見ていた視聴者がチャンネルBに変えた場合、チャンネルBで観たい番組があったからなのか、たまたまザッピングした結果Bに行き着いただけなのかはわからない。しかし、「チャンネルAがつまらないと思って離脱した」のは確実だということだ。

「ですからテレビマンは、なぜ視聴率が落ちたのかを特に研究することとなり、『最初からいた視聴者は、とにかく取りこぼさない』『番組の途中でやって来た視聴者は、絶対に逃さない』ための対策を講じます」(森永氏)

ここでテレビマンたちは、あることに気づいた。視聴者は、いま何が行われているかわからないと、再びチャンネルを変えて去ってしまう。それを防ぐには、テロップを常に表示させておいたほうがいい、ということに。それがいくら説明過多であっても、だ。

それに、常にテロップで説明されていれば、テレビをぼんやり見ている、あるいは家事などをしながらテレビを見ている視聴者が、ふと番組に意識を向けたとき、すぐ内容に追いつける。

「しかも、あれだけ画面を文字情報で埋め尽くしても、意外と視聴者は情報過多だとは感じず、問題なく番組を見続けられることも判明しました。結果、各局・各番組がマネをして、どの番組も似たような画面になっていったのです」(森永氏)

-AD-

「説明がないとわからない」のは民度の問題ではない

テレビをつけたらやっている番組が情報過多なものばかりになれば、視聴者も“すべてが説明されている状態”に慣れる。慣らされる。それが普通だという感覚になる。

「慣らされた結果、説明セリフの少ないドラマや映画を観ると、“情報が少ないな”と感じて、物足りない気分になる。それで早送りするなり、ついスマホを見たりしてしまう」(森永氏)

倍速視聴が習慣化している人はよく、「もはや普通の速度では物足りない。1.5倍か2倍くらいがちょうどいい」と言う。彼らは言語による情報供給スピードが遅いことに、我慢がならないということか。

「そういう意味では、YouTubeの動画はテレビよりずっと編集のテンポが早いし、情報で埋め尽くされていて密度が高く、倍速を好む視聴者が冗長と感じる“間”というものが、テレビと比べれば少なめであると言えます」(森永氏)

その情報密度、そのテンポに慣れてしまえば、映画のワンカット長回しや、セリフなしでの沈黙芝居に耐えられなくなるのは、当然かもしれない。

つまり、説明セリフを求める傾向は、観客の民度や偏差値の問題というよりは、習慣の問題なのだ。情報過多・説明過多・無駄のないテンポの映像コンテンツばかりを浴び続ければ、どんな人間でも「それが普通」だと思うようになる。その状態で、いざ長回しの意味深なワンカット映像や、セリフなしの沈黙芝居から何かを汲み取れと言われても、戸惑うしかない。

結果、出てくる感想は「わかんなかった(だから、つまらない)」「飽きる(だから、観る価値がない)」だ。

積み重ねられた習慣こそが、人の教養やリテラシーを育む。抽象絵画を一度も見たことない人間が、モンドリアンの絵をいきなり見せられても、どう解釈していいかわからない。

無論、抽象絵画など鑑賞しなくても人間は生きていける。同じように、セリフのないシーンに意味を見出すことができなくても、人間は生きていける。善悪ではない。ただただ、そういうことだ。

-AD-

「わかりやすさ」と「作品的野心」の両立が求められる

時代的に、“背伸び”って言葉がそぐわなくなってきたのかもしれないね。わからないものを無理して観て、なんとか理解しようと努力する、みたいな気運が」と言うのは、アニメーション映画『この世界の片隅に』(16)などのプロデュース会社・ジェンコの真木太郎社長だ。

“無理は良くない”“自分の限界以上に頑張るのは悪”。なにやら、ブラック企業に対する強烈な嫌悪感をも連想させる。それもまた、時代の空気か。

「でも、そういう人たちを責める気はないよ。観客がどう観ようが、観客の勝手だもの。観客には“誤読の自由”がある。だったら、早送りだろうが、10秒飛ばしだろうが、観る速度の自由があってもいい。もちろん、僕はそんなふうに観られる前提で作品を作ってはいないし、自分がプロデュースした作品を目の前で早送りされたら、“ふざけんな”って思うけど(笑)」(真木氏)

それは、諦めなのか。

「違うね。早送らない人に向けて、これからも作るだけ。ひとつ綺麗事を言うなら、早送りして観た人が、いつかその作品を普通の速度で観ることがあって、ああ、こんないい作品だったんだって気づく、みたいな美談は、正直期待したいよね」(真木氏)

『ドラえもん』などのファミリーアニメ、『交響詩篇エウレカセブン』などのSFアニメほか、実写の映画やドラマの脚本、ゲームシナリオなども手掛ける脚本家の佐藤大氏は、作品の作り方を根本から変える必要がある、と考えている。

「説明セリフを入れざるをえないのは仕方がないとして、脚本家としては、それとは別の部分に違うものを入れる、という戦い方をしなければいけないと思うんですよ。たとえば、『逃げるは恥だが役に立つ』や『MIU404』の野木亜紀子さんの脚本。すごくわかりやすくセリフで説明していながら、その背景にある社会問題や、彼女自身が追求したいテーマをしっかり入れ込んでいます

そしてここが大事なところですが、もしリテラシーの低い視聴者が『逃げ恥』の背景にあるテーマを十分に汲み取れなかったとしても、排除された気分にはなりません。ドラマはちゃんと楽しめる。そういうふうに、脚本が書かれているんです」(佐藤氏)

-AD-

リテラシーの低い視聴者に劣等感を抱かせなければ、前編で佐藤氏が指摘したように「作品にクレームをつけてマウントを取ってくる」こともない。しかも、それでいてリテラシーの高い視聴者は、作品の奥行きを堪能できる。どちらの観客も満足させる作品づくりが求められているということか。

「NHK朝ドラの『あまちゃん』もそうでしたよね。リテラシーの高い人は細かいサブカルネタや80年代の時代背景を掘り下げて楽しんでいたけど、それがまったくわからない人も、のんさんの奮闘をただ追いかけているだけで、楽しめました」(佐藤氏)

「オープンワールド化」する脚本

かつて映像作品は、ある程度以上のリテラシーの観客に向けて作っていても、さほど問題にはならなかった。理解できない者の一部は勝手に背伸びをして理解に努めてくれたし、排除された客の声は可視化されなかったからだ。

しかし今は違う。商業作品と名がつく以上、あらゆるリテラシーレベルの観客が満足する(誰もが気分を害さない)ものを作らなければならなくなった。否、そうでなければならない空気が厳然としてある。マイノリティの尊重、多様性に寛容である、といったポリコレの並びに、「リテラシーが低い人を差別しない」が新たに置かれた。

「みんなに優しい作品」こそが「良い作品」なのだ。

-AD-

とはいえ、どのレイヤーの人間も満足させる作品づくりには、途方もない、とてつもない創作労力が必要とされる。

オープンワールドゲームみたいなものだと思うんですよ。広大な世界観はこちらで用意しておく。好きな場所を徹底的に掘ろうと思えば掘れるし、掘らなくてもゲームは楽しめる。どういう目線でその世界を体験するかは、プレイヤーの自由です、と」(佐藤氏)

オープンワールドゲームとは、舞台になる広大な仮想世界(基本的には3D空間)を自由に動き回るタイプのゲームだ。一応目的は設定されているが、その世界でどのように過ごすかはプレイヤーの自由。昨今の著名作としては、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』や『グランド・セフト・オート 5(数字は正しくはローマ字表記)』がある。

オープンワールドゲームは、制作者側が用意したすべての建築物や場所に足を踏み入れずとも、またすべてのイベントを体験しなくとも、一通り楽しめるように設計されている。「ゲーム内で体験できていないこと」があっても、プレイヤーを不快な気分にさせないのだ。

物語の作り方というものを根本的に変えねばならない。大変な時代がやってきた。

「変えた、と言えば『シン・エヴァンゲリオン』がいい例ですよ。1995〜96年のTVシリーズから25年間、ずっと“説明しない”でおなじみだった庵野秀明監督でしたが、『シン〜』の終盤では、主要キャラクターが順番に登場して、心情をセリフで丁寧に説明してくれました。

こんな親切な『エヴァ』は初めてです。庵野さんは常に時代に寄り添う人だから、“今はこういうターンだ”と思って、あえてそうしたんじゃないでしょうか」(佐藤氏)

おすすめ記事