ダーウィンを祖とする進化学は、ゲノム科学の進歩と相まって、生物とその進化の理解に多大な貢献をした。
一方で、ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。
発売からたちまち4刷となった、話題の『ダーウィンの呪い』では、稀代の書き手として注目される千葉聡氏が、進化論が生み出した「迷宮」の謎に挑む。
※本記事は千葉聡『ダーウィンの呪い』から抜粋・編集したものです。
自己家畜化する人間
1870年代、まだ優生学という言葉を作る前、ゴルトンが人間の進化的改良のアイデアを示したとき、ダーウィンはやんわりと批判し、懸念を述べた。壮大ではあるが、実現不可能なユートピア計画、という印象を受けたらしい。現実問題として、誰が体力、道徳、知性の面で優れているのか、容易には決められないと指摘している。
とはいえゴルトンの『天才と遺伝』を称賛した経緯からも窺い知れるように、また『人間の由来』で説いているように、ダーウィンにとっては人間の知性も道徳も、人間が創り出す社会も、生物の様々な性質と同じく自然選択を主とする生物進化の産物だった。
そもそもダーウィンはかなり早い段階から──『種の起源』を出版する以前から、人間の様々な性質は自然選択で説明できると考えていた。『種の起源』には、あえてその部分を含めなかっただけである。
人間に作用する自然選択が、文化的な理由から、例えば何らかの価値観に基づいて、婚姻や協力などを介し人間自身が引き起こすものであった場合、それは自発的な人為選択、とも言える。
ダーウィンは、人間の身体や行動などに、品種改良された犬や猫などの家畜と類似した性質があることから、人間は家畜の育種で選抜した友好的な行動と見かけを、人間自身に対しても選択し、進化させてきたと考えていた。つまり人間の進化は自己家畜化だ、というわけである。
社会ダーウィニズムという言葉があるが、もしダーウィンのオリジナルな思想をダーウィニズムと定義するなら、この語は重複表現である(*1)。なぜならダーウィンの進化論と自然選択説は、もともと人間の知性や協力行動、道徳、そして社会の進化を、それ以外の進化と一体のものとして含んでいたからである。そこには部族のような人間集団を単位とした素朴な集団選択の考えも添えられていた。
人間社会に生物進化の考えを適用したのが、英国、米国、そしてナチスへと至るゴルトン流の優生学の系譜であるとするなら、当初から人間の進化を念頭に置いていたダーウィンの自然選択説そのものが、この系譜の発端だったと言えるだろう。
ところがダーウィンのオリジナルな進化論は、原理的に「人種」の存在も、その優劣も否定する。生物は常に変化し、分岐し、そして進歩を否定するからである。そもそもダーウィンは「種」を実在しない恣意的なカテゴリーだと考えていた。皮肉にも本来、人種差別を否定し、人々の優劣を否定する理論が、その逆の役目を果たしたわけである。
ダーウィンは進化論の着想を得る前から、奴隷制度廃止論者だった。ビーグル号航海記では、奴隷制度に激しい嫌悪感を示し、人種差別への違和感を吐露する場面がみられる。
だが、科学の理論や発見の意義と、それを生み出した科学者の価値観を結びつける試みは、物語としては魅力的だが、得るものは少ない。人の心は、科学の理論とは比較にならぬほど複雑で捉えどころがなく、矛盾に満ちているように思われるからである。つまり両者の関係を観察する側の価値観──偏見や先入観次第で、いかようにも解釈が成り立つ。
例えばダーウィンの別の側面を見れば別の理解も可能だ。ヴィクトリア期英国の中産階級の大半がそうであったように、ダーウィンが階級意識とアングロ・サクソン優位の偏見を抱いていた点は否定できないし、『人間の由来』から女性差別の視点を読み取るのも可能である。
偏見や差別の強化に科学を利用した科学者の場合もそれは同じで、動機の背後にある価値観の由来を推し量っても、あまり有益な知見は得られないだろう。
ダーウィンの理論を応用して、天才に至高の価値を置き、先天的な能力と道徳性で優劣をつけ、優れた者だけを選抜して人間全体を強化する思想を唱えたゴルトンだが、『天才と遺伝』に、こんな怨念じみた感想を述べている。
「少年と少年、男と男の間に違いを生み出す唯一の要因は、地道で道徳的な努力であるという、ときに明言され、しばしば仄めかされる仮説が、私には我慢ならなかった」
ゴルトンの思想は、神童だったはずの彼が、どんなに努力しても仲間たちについていけなかった学校生活、それから、どんなに勉学に励んでも秀でることがかなわなかったケンブリッジ時代の経験に由来する、と考える科学史家もいる。人の多面的な心の何を見るかで解釈は変わるのである。
危険な思想が出現した理由のすべてを、特定の時代の特異な個性に帰すのがよいとは思えない。それよりどの社会の誰の心にも、それを抱く素地がある、という認識を持ったほうがよいのではないか。
その思想は不死身の生命体のように、はるか昔から雌伏していて、時を得るや人と社会を利用して姿を現し、猛威を振るい、やがていずこかへ姿を消して復活の時を待つ──そう考えるのが適切であろう。科学者が思想を生み出したというより、思想が科学者を宿主とし、科学を武器に利用したのである。
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(*1)社会ダーウィニズムの語は19世紀後半には既に使われていたが、現在の意味で広く使われるようになったのは、主に20世紀半ば以降である。また定義も非常に曖昧で、本来ダーウィニズム(これ自体曖昧な用語である)と関係の薄いスペンサー進化論がその代表とされたり、相互扶助を訴えるクロポトキンの進化論を含む場合があるなど、誤解を招くのであまり好ましい用語であるとは思えない。