「FF外から失礼します」に違和感を覚える人は、完全に遅れている

いつから気にするようになったのか…

「FF外から失礼します」ってなに?

皆さんは、「FF外から失礼します」というフレーズを見かけたことはありますか。

私がはじめてこのフレーズを見かけた時、「FF外」の意味がわかりませんでした。FFというと、ロールプレイングゲームの『ファイナルファンタジー』の略称か、自動車の前輪駆動の略称ぐらいしか思い浮かばなかったからです。

調べてみると、FFとは、「フォロー・被フォロー」のことで、「FF外から失礼します」とは、相互フォローではない他人のアカウントにコメントする際の“おことわり”のフレーズだったのでした。

一体いつから、他人にコメントするのに“おことわり”が必要になったのか? 気になったので、Googleトレンドを使って確かめてみました。

Googleトレンドより

「FF外から失礼します」は、2015年と2016年に短期的に流行した後、2017年頃から定番フレーズになったことがわかります。

津田大介氏による『Twitter社会論』が出版されたのが2009年、テレビ番組に「ネットの声」と称するコメントが流れるようになったのが2010年代の前半ですから、SNSが普及してからしばらくの間は、「FF外から失礼します」という“おことわり”は存在していなかったと考えて差し支えないでしょう。

オープンな状態のTwitterアカウントやFacebookアカウントには、もともと誰でも自由にコメントできますし、インターネットの仕組み自体、リンクによって知らない者同士が繋がって、コミュニケーションできる仕組みだったはずです。

誰もがSNSを使うようになって数年が経ち、シェアもリツイートも日常的に使いこなすようになった現在では、そのことを知らない人などほとんどいないでしょう。

にも関わらず、「FF外から失礼します」などという“おことわり”が、今というタイミングで定着したことに、私はちょっとしたカルチャーショックを受けました。

誰もがコメントしあい、誰もが自由に繋がりあうはずのインターネットに“おことわり”のフレーズが定着したのは、いったいどういうことなのでしょうか。

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ミクシィは「クローズ」だった

誰もが自由に繋がりあうはずのインターネットとはいえ、ネットユーザー全員が自由に繋がりたいと思っていたわけではありません。

2005年当時の「ミクシィ」トップページ

たとえば2004年にサービス開始となり、日本のSNSの先駆けとなったMixiは、知人からの招待制のシステムを採っていて、クローズなコミュニケーションの場として成功していました。後には公開日記の炎上騒ぎもあったとはいえ、総体としてのMixiは「知り合いだけが読める、知り合いにしか読んで欲しくない」ネットサービスだったと言えます。

また、Mixi以前のインターネットでも、“無断リンク禁止”という但し書きのついた個人ホームページは、それほど珍しいものではありませんでした。インターネットの仕組み自体は自由でオープンでも、繋がりたい人とだけ繋がりたい・繋がりたくない人とは繋がりたくないと願う人は存在していたわけです。

やがてTwitterやFacebookが、後にはLINEやInstagramが普及すると、クローズなコミュニケーションを望む人は、それらのサービスを用いるようになりました。

複数のアカウント、複数のアプリを使い分けることによって、SNS時代のネットユーザーは、オープンな「ソト」のコミュニケーションと、クローズな「ウチ」のコミュニケーションを的確に使い分けることができます。

なかには、クローズに留めておくべき文章や写真をオープンに公開してしまい、炎上したり社会的制裁を被ったりする人もいましたが、そのようなユーザーは全体のごく一部でしかありません。

また、学校などでネットリテラシーの教育が進んだこともあってか、以前に比べると、「ウチ」と「ソト」を区別できていないアカウントは少なくなりました。

それなら、「オープン=ソト」のアカウントでは誰もが自由に繋がりあい、「クローズ=ウチ」のアカウントでは内輪のコミュニケーションを楽しめばいいじゃないか……と私などは思ってしまいますが、現実に到来したのは、それとは正反対の事態でした。

インターネットが「世間」になった

TwitterなどのSNS、スマホが普及して以来、インターネットを経由したコミュニケーションは、世の中の大多数が、日常的に行うものとなりました。

それ以前にもガラケーを使ってローカルなコミュニケーションをする人、パソコンを買ってブログを書く人はいましたが、日本のインターネットが本当の意味で“みんなが繋がりあうメディア”となって、そこで広がる声が“世論”として無視できなくなってきたのは、2010年代以降です。

そう、インターネットは、いつの間にか“世論”をかたちづくる場になったのです。

“世論”をかたちづくる場になったということは、インターネットが“世間”になったということでもありますし、“リアル”と地続きになったということでもあります。

Photo by iStock

ほんの十年ぐらい前まで、インターネットは、「ウチ」か「ソト」かを区別する以前に、まずは非日常であり、アンダーグラウンドな世界でした。

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昔は、インターネットのイメージ画像として、真っ暗な部屋でキーボードを叩いている図像がニュース番組などで用いられてきましたが、実際問題、インターネットをまともな“世間”とみなしている人はほとんどいませんでした。

インターネットに何かが書き込まれていても、その社会的な位置づけは“便所の落書き”も同然でした。

ところがインターネットを誰もが日常的に利用するようになり、“ネットの声”をマスメディアが大々的に取り上げるようになると、インターネットは急速に“世間化”“リアル化”していきました。東京五輪のロゴ問題の炎上のように、“ネットの声”がそのまま“世論”に直結し、国政に影響してしまうケースすらあります。

一昔前まで耳にしていた、「“ネット”と“リアル”の区別がついていない」という決まり文句は、完全に時代遅れになったと言えるでしょう。今ではむしろ、“ネット”と“リアル”を区別し過ぎるほうが危険です。

インターネットが“世間”になったことで、ユーザーの感覚も習慣も変わっていきました。

インターネットが“世間”とみなされるかみなされないかの境目の時期、SNSがレイトマジョリティにも普及していった2010年代前半ぐらいまでは、TwitterなどのSNSを旧来のインターネットに近い感覚で使う人が多かったらしく、オープンなTwitterアカウントやFacebookアカウントに、危なっかしい書き込みや写真投稿を見かけることがよくありました。

私も、とある大学の運動系サークルの個人情報が無防備に公開されているのを発見してしまい、びっくりしたものです。

しかし2015年以降は、「インターネットには何を書いても構わない」という感覚もめっきり少なくなり、危なっかしい書き込みや写真投稿は減っていきました。と同時に、例の、「FF外から失礼します」というフレーズが使われ始めたのです。

これらが意味しているのは、インターネットが“世間”や“リアル”と地続きになるにつれて、私達のインターネット上での振る舞いもまた“世間”や“リアル”におけるそれと近しくなっていった、ということです。

知らない人に声をかける感覚

かつての日本、特に田舎では、知らない人に声をかけることは迷惑でも失礼でもありませんでしたが、現在の日本では、知らない人に声をかけることは迷惑や失礼とみなされています。

見知らぬ人に突然声をかけられれば身構えてしまいますし、そうでなくても、キャッチセールスのたぐいが横行しています。だから、知らない人に声をかける際に「失礼します」とか「すみません」といった“おことわり”が必要なのはわかる話です。

それと同じロジックが、今ではインターネットにも適用されるようになりました。“世間”や“リアル”とインターネットが地続きになったからこそ、知らないアカウントに声をかける際にも何らかの“おことわり”が必要になった、少なくとも、必要だと考えるネットユーザーが増えてきた、ということなのでしょう。

ネット上での反応をみていると、私と同様、「FF外から失礼します」のような“おことわり”が用いられるようになったことに、カルチャーショックを受けている人も少なくないようです。

見知らぬ者同士が自由に発言しあい、自由に繋がりあうのがインターネットの長所だとみなしてきた古参のネットユーザーにとって、“世間”や“リアル”と同じような習慣が広まりつつあるのは、息苦しいことでしょう。

正直に白状すると、私も「どうしてインターネットで“リアル”と同じ振る舞いが必要なのか?」とぼやきたくもなります。

しかし、現在のインターネットは、昔のような「“世間”ではないどこか」ではありません。“世間”や“リアル”と地続きなソーシャル空間に変わったのですから、この場合、ぼやいている人のほうが時代遅れなのでしょう。

「FF外から失礼します」に違和感をおぼえない人のほうが、インターネットの現状に即しているのではないでしょうか。

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フォロワー数が気になって仕方がない

ここまで述べてきた認識にもとづいて考えると、昨今のSNSやInstagram周辺で起こっている盛り上がりもまた、“世間”的なもの、“リアル”に直結したものという風にみえてきます。

先日、マクドナルドで隣の席に座った女子高生達が、「自分のアカウントの被follow数が増えない」「100人以上からfollowされたい」だのと語り合っていました。

私のような古いネットユーザーの感覚では、SNSの被follow数など、しょせん、コンピュータゲームのスコアみたいなもので、実生活には無関係という印象を抱いてしまいます。

しかし、いまどきの若者が被follow数に一喜一憂している際に感じる、あの執着の強さを見ていると、SNSの被follow数は、もはやその人の社会的評価の一部なのだと慨嘆せざるを得ません。

SNSが“リアル”や“世間”と地続きだからこそ、被follow数が社会的評価の一部を成してしまうようになり、そこに一喜一憂しなければならなくなってしまったのでしょう。

Photo by iStock

同じ認識でInstagramについて眺めると、いわゆる「インスタ映え」した写真をたくさんアップロードしている人の本態は、Instagramを使って、“ソーシャル化粧”をしているようなものとみなして差し支えないでしょう。

Instagramのアカウントは、アップロードした写真の集合体として、ユーザーの体験を他人に印象づけるひとつの社会装置として機能します。Instagramをみれば、ああ、この人は素敵な体験をしているな、豊かなものに囲まれた生活をしているな、といったことがみてとれるわけです。

しかし、Instagramはユーザーの体験のすべてを知らせるわけではありません。ユーザーが写真に撮り、セレクトした上澄みだけをアップロードして、それがその人のアカウントの見栄えをかたちづくります。Instagramの見栄えとは、見せたいものだけが強調され、都合の良いように「編集」されたものです。

化粧もまた、顔の見せたいところを強調して、都合の良いように顔を「編集」することで見栄えを良くする行為ですから、Instagramが若い女性から流行したのは当然の結果だったのかもしれません。

日頃から、自分の顔を見せたいように「編集」し慣れている彼女達からすれば、写真を選りすぐってアカウントの見栄えを「編集」できるInstagramは、社会的評価に化粧をほどこすのに好都合なツールだったことでしょう。

インターネットが“世間”や“リアル”と地続きになった今では、Instagram上の社会的評価が、アカウントの持ち主自身の社会的評価にも直結することになります。

そのことにみんなが気付いたからこそ、欲望まみれな中年男女までもが“ソーシャル化粧”に血道をあげるようになり、Instagramはひとつの社会現象になったのでしょう。

このように、誰もがインターネットを“リアル”や“世間”と地続きとみなすようになったことが、「FF外から失礼します」や「インスタ映え」が流行る素地となったのです。

一連の現象を振り返ってみると、ネットユーザーは、誰から教えられたわけでもないのに、インターネットというメディアの、社会のなかの位置づけの変化を無意識のうちに把握していたのだと思わずにいられません。

把握していたからこそ、それにふさわしい“おことわり”を用いるようになり、SNSやInstagramを“ソーシャル化粧”のツールとして活用するようになっていったのでしょう。いやはや、人間の社会適応能力とはたいしたものだと、舌を巻かずにはいられません。

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