人付き合いが増えると、時には自分に害をなす者との交際が必要となるケースもある。そんなとき、よく口にしてしまうのが「根はいい人なのだけど」という言い訳だ。
世の中には根っからの悪人などそう多くはいない。誰だって、どこか人間味のある性格や行動はあるものだし、しっかりと内面を見つめてみれば愛すべき点が見つかるものだろう。だが「根がいい人」との付き合いははっきり言って損をする。
私は、つい最近、実体験として「根がいい人」といわれる相手を拒絶した。
「彼氏、刺青が入っているんだよね」
わが家には娘がいる。
24歳の娘はいわゆる「出戻り」で、20歳のころにパートナーとの間に授かった女児を産み、すぐに離婚した。離婚後はわが家に戻って同居しているので、世間から見ると「子連れの出戻り」といったケースだ。つまり、わが家には娘と孫娘がいる。
そんな娘が、最近になって「今付き合っている彼氏を紹介したい」と言いだした。
「なんだ、なぜそんないい話を黙っていたんだ」と嬉しく感じたが、娘はなにか言いにくそうな雰囲気を醸し出している。娘の次の言葉は衝撃的だった。
「彼氏、刺青が入っているんだよね」
聞けば、娘の彼氏はいわゆる「暴走族OB」というやつで、以前はバイクで暴走行為やケンカなどの犯罪行為を繰り返していたらしい。今ではすっかり足を洗い、建設作業員として真面目に働いているとのことだが、当時は暴力団関係者との付き合いもあって、腕から背中まで立派な和柄の刺青が入っているのだという。
娘にとっての評価は、「刺青を入れているが根はいい人」だそうだ。
私は、その面会を断った。どうしても「根はいい人」という言葉の違和感を払拭できなかったからだ。「いい人」が集団暴走行為などするはずがないし、暴力団関係者と交際して刺青までいれてしまうことなど考えられない。
もし、そんな男に大切な娘と孫娘の未来を任せてしまえばどんなことが起きるのか。
悲劇的なイメージしか浮かばない。いくら成人した娘だからとはいえ、自発性や自己責任だけで済まされる問題ではないし、リスクから遠ざけたいと望むのは親として当然の判断だろう。
私は「時代遅れの老害」なのだろうか
この一連の流れをTwitterに投稿したところ、瞬く間に拡散されてリツイートも1万件を超えた。「当然だ」「反社会勢力のイメージが強い」といった賛同のコメントも多かったが、一方で攻撃的なコメントも決して少なくはなかった。
「人間を見た目で判断するなんて、時代遅れの老害だ」、「海外では批判されていない」、「毒親をもった娘がかわいそうだ」、「刺青に対する差別を正すべきだ」……。
私も、ある程度の批判があるだろうとは予想していたが、まさか差別問題にまで言及するユーザーがいることまでは考えていなかった。
わが国における刺青は、古代では儀礼的なものとして、江戸時代では町衆以下の「粋」の象徴として栄えてきた。また、海外でも美術的な意匠が高い評価を受けている。
だが、江戸時代には罪人の証として刺青が施された経緯もあり、「苦痛もいとわない無法者」のイメージが現代においてなお定着していることもまた周知の事実だ。海外ではタトゥーが広く容認されており、国内でもタトゥーを入れたトップアーティストやアスリートが目立ち始めたとはいえ、やはり刺青にはアウトローのイメージがつきまとう。指定暴力団の構成員などには漏れなく刺青が入っているため、世間では「怖い」というイメージがあって当然だ。
ところが、意外なほどに刺青を容認する声は多かった。ファッション感覚でタトゥーを施している人も増えて、以前ほどの抵抗感はなくなっているのだろう。
それでも刺青は基本的に「好きこのんで施すもの」だ。刺青が入った状態で生まれてくる人間なんていないし、幼いころに身体を縛り付けられて施される悲劇的な虐待も稀だろう。
ケガや大きな手術の傷痕を隠すために刺青を施すケースは別として、好きこのんで施した刺青のために蔑視されることを「差別だ」と批判することを、私は甚だ滑稽に感じざるをえない。
「根はいい」犯罪者がいる現実
多くの批判的なコメントの中でも特に目立ったのが「刺青があるだけで人物の『中身』まで蔑視するな」といったものだ。
たしかに、私も「刺青が入っている人物がすべて根っからの極悪人だ」とまでは思っていない。刺青が入っていても犯罪経歴がない人はたくさんいるし、刺青が入っていなくても性根から腐りきった悪人はいくらでもいる。刺青の有無だけで人間性のすべてが判断できるわけではないのは当然だ。
刑事の仕事をしていると、通常の会社員として生活するよりも刺青に触れる機会が多い。街頭での暴行・傷害事件、夫婦間でのDV事案などでは、刺青が入った被疑者を見かける機会が非常に多かった印象がある。
取調べをおこなってきた被疑者の中には、腕や背中だけでなく、顔面、目のまわりにまで刺青を施した者もいた。顔面への刺青は想像を絶する苦痛を伴うだろう。このように聞けば、多くの方が恐ろしいほどの強面を想像するだろうが、この被疑者は笑顔にあどけなさが残る19歳の少年だった。
私が取調官に任命され、取調べを通じて事件の概要を探ったが、雑談をする日も多かった。「最近ゴルフを始めてやっとまっすぐ飛ばせるようになった」とか、「親父さんは厳しい性格だが尊敬の対象だ」とか、「気に入っている同年代の女の子がいるがアタックする勇気が出ない」とか……。こんな話を聞かせてくれるとき、その被疑者は必ず満面の笑みだった。
「雑談をする日も多かった」といったが、むしろ半分以上は雑談のような形式で取調べが進められたといっても過言ではなかっただろう。
この被疑者は、根っからの悪人ではなく、むしろ気さくな雰囲気がする「根はいいヤツ」の部類だったと今でも思っている。しかし、彼が社会に対して示した行動は犯罪であり、たとえ根はいい人物でも咲かせた花や広がった葉は毒だったのだ。
そして、彼の身体や顔面に施された刺青は、毒を象徴している。
根は地中に埋もれ、人目につくことはない。深く掘り下げれば「根はいい」のかもしれないが、人目につく花や葉が毒なら、それは世間からみれば毒草と評価されてもやむを得ないのだろう。
「根はいい人」=「悪い人」
「根はいい人」というのは決して褒め言葉ではない。「花や葉の見た目が悪いからこそ、だからといって根まで腐っているわけではない」という一種の言い訳として使用される言葉だ。
そういった意味では、今回、娘はフォローのつもりで私に「根はいい人」と彼氏のことを紹介したつもりだったのだろうが、用法を誤ったとしか言いようがない。現に、私は「根はいい人」と聞かされても違和感を覚えたのみで、「どのようにいい人なのかを会って見極めたい」という感情は起きなかった。
たしかに、心持ちが豊かな人物は魅力的だ。人間の根幹の部分が「良い」とされる人物はとても素晴らしい。
しかし、人物の評価はまず見た目に清潔感があったり、言葉遣いや態度が清廉であったりすることから始まる。「外見は内面の一番外側」といった言葉があるように、人は視覚情報によって他人を「こんな人だろう」と予想するのだ。
たとえば刺青を入れている強面であろうと、たとえば犯罪の経歴がある人物であろうと、恋人、家族、友人などにまで威圧的であったり暴力的であったりするわけではない。その姿をみて「根はいい人」というのであれば、さて、花や葉はどうだろう。
コンビニやファミレスの店員に声をかけるときに「おい」と投げかける、車を運転している最中に腹を立てれば降車して相手を怒鳴りつけるといった行動を取る人物なら、根がいいという評判も疑わしい。どんなに「根はいい人」と評されていても、他人に迷惑をかけることを何とも思わない人物であれば、社会的には害悪でしかない。
つまるところ彼らは「いい人」と「悪い人」を意識的に巧みに使い分けており、自分がよく思われたい相手の前でだけ「いい人」になりうる。つまり、身近な存在でもない限り、誰がみても「悪い人」の部類なのだ。
今回、私の投稿をみて「刺青を入れているからといって悪人だと決めつけるな」とコメントした方々は、きっと「根はいい人」と評される類のわずかに残った人間味に触れた経験があるのだろう。そうでなければ、誰が見ても「悪い人」の部類に入ってしまう刺青が入った人たちを擁護する気になんてならないはずだ。
人的なトラブルが発生したときに「根はいい人なんだけどな……」と語ることがあるが、そんなときは、必ず悪評とセットになっている。「根はいい人だけど、怒ると我を失ってしまう」「根はいい人だけど、約束を守らないところがある」といった話は典型的な例だろう。
「根はいい人」といわれている人は、他人に数々の不利益を与えているにも関わらず、どこか憎めない性格や愛嬌を免罪符にしている気配がある。すでにあなたにとって不利益が発生しているのであれば、どんなに根はいい人でもあなたにとっては害悪であり、付き合いを続けることによってあなたが損をする。
ちょっとした面倒くらいの損なら許せるかもしれないが、「根はいい人」のために自分の人生までもが狂わされてしまってはたまらない。現代はとかく内面重視が美徳とされがちだが、花や葉の情報から根の毒性を選別することも大切だ。