「使えない奴は切ればいい」なぜ日本人はそう考えるようになったのか

「健康的で道徳的な時代」の影にあるもの

一風変わったタイトルの本が、いま話題となっている。『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』──。

社会の「暗部」の存在そのものを認めない、目を向けてはならない。そんな意識を強迫的なまでに内面化しつつある私たちの社会は、なにか大きなものを犠牲にしていないか。本書の著者で現役精神科医の熊代亨氏と、文筆家の御田寺圭氏が、この「問題の書」がもたらすインパクトを存分に語り合った。
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「はみ出す人々」に冷たいこの社会で

御田寺 新型コロナウイルスの感染拡大で私たちが実感したのは、医療や科学が社会秩序の形成、もっと言えば規範の形成に大きな役割を果たしているということです。例えば「クラスター対策班」の主軸として重要な役割を果たした北海道大学の西浦博先生は、「他人との接触8割削減」といったスローガンを提唱し、結果として人々の行動や思考、あるいは規範意識まで変えてしまった。

今回、熊代先生は精神科医として、精神医療が社会に巨大な影響を及ぼすようになったこと、そしてその結果、「きちんとした」社会秩序からはみ出してしまう人々がむしろ疎外されてしまっているのではないか、ということを本書で訴えています。このタイミングで本書が世に出たのは偶然かもしれませんが、しかし大きな枠組みで言えば、科学や合理性、道徳意識や清潔意識などにより隅々まで裏打ちされた規範・秩序に対して、得も言われぬ息苦しさや違和感を抱く人が増えてきたことと無関係だとは思えません。

熊代 東京ではとりわけ顕著ですが、いまの日本人は清潔で、静かで、行儀のいい振る舞いを多くの人が当たり前のように身につけています。そのおかげで私たちは、ほとんどストレスを感じず快適に日々の生活を送ることができています。

しかしその反面、様々な事情からそうした振る舞いができない人たちや、他者とうまくコミュニケーションが取れない人たち、周囲に迷惑や手間をかけてしまう人たちのことを見ないようにしながら暮らしてもいる。そうした人々が結果的に落伍していったり、不遇な扱いを受けていたりしても、「それは自己責任だ」と思って目を背けている。そういう態度がどこかで歪みを生んでいるんじゃないか、こんなに潔癖な社会はどこかおかしいんじゃないか、そうした思いを心の奥底で抱いている人は、実は密かに増えているようにも感じます。

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御田寺 これは、なかなか言語化が難しい問題でもあります。その点、熊代先生は本書で問題のありかをすごくわかりやすく、鋭く語っていますね。

例えば第二章では発達障害、コミュニケーション障害の治療の社会的位置づけについて詳しく記されていますが、こうした障害を「治療する」ということは、病気そのものを治すというより、事実上「就労に結びつける」ことを目指すものになっていると指摘しています。定型発達の健常者が優遇されるこの資本主義社会にフィットする人間として、ある種の「再教育」を施すことが、現在の精神医療では是とされているわけです。

確かに、それ自体は本人にとっても救済や支援になるし、医療者たちも良かれと思って治療にあたる。しかし同時に、そうした精神医療のあり方が、定型発達の健常者に利する「コミュニケーション能力至上主義社会」の流れをさらに加速し強化することに加担してもいる。精神医療のこうした側面を、現役の精神科医である熊代先生が指摘するということは、すごく勇気あるご発言であり重要なことだと思う一方、こんなにズバッと言って大丈夫なのかな? と心配にもなってしまいました。

熊代 実際、読んで良い顔をされない同業者もいらっしゃるかもしれません。しかし、私たち精神科医こそ、自分たちが取り組んでいることが何を社会にもたらしているのか、再確認すべき時が来ているのではないかとも感じているのです。ですから、この本は同業者に一番読んでいただきたいと思いながら書きました。

現在の医療や福祉の支援が目指しているのは、マジョリティと同じように働けるようにするとか、経済的に自立した生活を送れるようにするということであって、結局、この能力主義的な世の中の仕組みにうまく組み入れられる人を送り出すことが目的になってしまっていませんか。そうした流れは年々強まりこそすれ、なかなか省みられてはいません。

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御田寺 私が最近知って危機感を持ったのが、適性検査の逆バージョンである「不適性検査」が企業のあいだで好評を博しているということです。普通の適性検査の質問項目に、精神障害や双極性障害の可能性がある人を炙り出す問題を紛れ込ませて、リスクのある応募者を判定し除外してしまうサービスが出てきている。もちろん、あくまで適性検査であって、精神科医が介在する診断ではないし、検査の中には障害という言葉も一切出てこない。「仕事とのミスマッチを防ぐものです」と書いてあるんです。

熊代 いつの間にそんなものが……事実上、障害を持つ人の選別に使えてしまいますね。たとえそうした目的ではないとしても、一種のハイパーメリトクラシー、学力や事務処理能力だけでなくコミュニケーション能力や性格、外見の良し悪しなども含めて採用する人材を決める、という考え方の極致です。

しかし今は、人間をそのように評価することが「正しい」という世の中になっている。昔は縁故主義がまかり通っていたり、逆に試験の点数だけで採用する人材を決めたりする会社もあって、それはそれで問題があったかもしれないけれど、現代では大学のAO入試にも象徴されるように、多元的な軸で人物評価をし、値踏みするのが当たり前で、それが新たな格差や生きづらさの根源になっている。

人生のすべてを「投資」とみなす人々

御田寺 熊代先生も私と同じだと思うのですが、私はそうした尺度や、社会のマジョリティが考える「正しさ」からこぼれ落ちてしまう人たちのことをどうしても考えずにいられないんです。

現代社会はまさしく高度コミュニケーション社会で、自分で付き合う人を選ぶことができる。それってすごく快適なんですよね。昔に比べれば、鬱陶しい親戚や隣人と付き合わなければいけないという圧力は減っているし、SNSでは誰とでもワンクリックで繋がれる反面、ブロックすればサクッと関係を切ることもできる。

それは逆に言えば、自分も常に他人から値札をつけられて、不要だと思われれば見限られるリスクとワンセットになっている。多くの人はそれを歓迎しているようですが、その流れの中で、うまく他者と関係が築けない人を周縁部へ排除する動きも同時に起きているように見えます。人生のあらゆる局面が「投資」であるというネオリベラリズム的な考え方が、人間関係の構築にまで浸透してきているのではないでしょうか。

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熊代 確かに若い人たちは、友人に対してすら、生産性や効率を考慮して「こいつは使えない」と思ったら切ればいい、というロジックで評価するし、自分も他人からそう評価されているという自覚を持って生きているように感じますね。それは自由な生き方かもしれないけれど、とてもシビアだし、ついていけない人や誰からも好かれない人はどうなってしまうのか、という問題を含んでいます。

御田寺 コミュニケーション能力というと言語能力ばかりピックアップされがちですが、外見や立ち居振る舞い、声色、服装や体臭、あるいは立ち位置の選び方に至るまで、非言語的なコミュニケーション能力も含まれる広範なものです。そうしたコミュニケーション能力には、本人にもコントロールし難い側面がある。

私はどちらかというと威圧的な見た目をしているので、街中などで他人に警戒されているな、と感じることがあります。「かわいいは正義」という言葉はまったくその通りで、不快感を与えない、不審に思われないことが至上命題で、それができない人はわずかなミスでも、あるいはなにをしているわけでもなくても「加害者」だと措定されるような社会になっているように思えます。

熊代 私は出張などで知らない場所に行くと、何の変哲もない住宅街を歩いて、その街の雰囲気を感じたり写真を撮ったりする趣味があります。そのとき確かに、きちんとスーツを着ていると大丈夫ですが、よれた普段着だと厳しい視線を感じますね。

「迷惑な人」が「加害者」と見なされる

御田寺 いい歳をした男性が昼間にフラフラしていると、即「加害者」までは行かずとも、その予備軍であると見られて警戒される。実際に、初老の男性が公園のベンチで休憩していたところ、何もしていないのに盗撮を疑われて警察に通報された、という話も去年話題になりました。

私が子どもの頃ですら、公園でボール遊びしていると怖いおじさんが来て「やかましいんじゃ!」と追い回されるようなことがありました。でも、それでボール遊びが禁止になるわけではなかったし、おじさんが警察に通報されることもなかった。いわば公園のような公共の場は、お互いに迷惑をかけあえる空間だったわけです。

しかし今では、他人に「迷惑をかける」こと自体が重大な権利侵害であり、加害行為であるということになってしまった。ヘタをすると、フラフラ出歩いて他人に警戒心を与えるだけでさえ「加害」であるとみなされかねない。「お互い、迷惑をかけないようにしましょう」という取り決めが先にあって、その枠組みからこぼれてしまう人には徹底的に厳しい眼差しが向けられる。

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熊代 「公園で子どもが自由に遊べない」という問題と「疑わしい人は不審者と思え」という問題は、根っこでつながっていると感じます。「子ども」と「不審者」はどちらも社会契約や個人主義からはみ出た存在、あるいはそれらを脅かすリスクになりそうな存在であって、社会秩序の中にうまく位置づけることができない。だから、「子供はボールで遊ぶな」と「不審者は排除せよ」が同じ時期から盛んに言われるようになったわけですよね。

「不審者」と疑われがちな男性も、子どもたちの安全を守りたい親御さんも、どうしても自分の利害や不満から問題を眺めてしまいます。しかし実は、本当の問題は、なぜお互いにそういう曖昧な存在を認められなくなり、秩序を乱す存在は排除しないと気が済まなくなってしまったのか、ということのほうではないでしょうか。

「不快なもの」は禁じればいいのか

御田寺 本書の中でも触れられていますが、例えば少年による刑法犯の検挙人数も、少年が被害者となる刑法犯の認知件数も、平成に入ってからほぼ右肩下がりで減っているんですね。でも警察庁の犯罪統計では、「この10年で日本の治安は悪くなっている」と感じている人が依然として6割を占めています。これは、実際には危険が増しているわけではないのに、私たちの「不安」や「不快」を検知する閾値ばかりが下がって、鋭敏になってしまっていることの証ではないか、と思うのです。

生身の人間に対してだけではなくて、近年では、自分が相容れないフィクションの登場人物や表現などに対しても、「加害である」とか「差別である」というロジックで排除を唱える人が一部にいます。それはしばしば「政治的正しさ」という文脈で語られるわけですが、実際には理論的な裏付けや、何が差別なのか、何が加害なのかといった根拠を明確にして反発している人よりも、「不快になった」という感情に、後からそれらしい理屈をつけて怒る人の方がはるかに多い。

熊代 性的表現や差別表現に関しては、海外では日本とは比べ物にならない議論の蓄積がありますし、正しさの存立の仕方も日本とは異なっているように見えます。欧米の議論はポリティカル・コレクトネスの理論に立脚しているものが多いですが、日本では「不快なもの、迷惑なものは取り除かれ、禁じられるべきである」という、それこそ清潔秩序の論理が強く影響しているようにも感じられます。

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御田寺 本書では「弱者やマイノリティと認定されなければ、あるいは医療や福祉の対象と認定されなければ、医療や福祉は援助してくれないし、世間の人々も配慮してくれない」という指摘があり、印象的でした。清潔な秩序に適合できない人は、社会の中で搾取されやすく、割を食いやすい。その上、そうした人々は他人から不快感を抱かれたり、「危険で有害な思想や趣味の持ち主だ」とバッシングを受けてしまうことも珍しくない。

不快感や恐怖感、不審感が社会正義と容易に接続され、排除の大義名分とされてしまうことが問題なのは、この点においてだと思います。例えば、共感を得づらく警戒もされやすい、その上マイノリティとして認定されることもない中高年男性などは、苦境に陥っていてもなかなか苦しみを理解してもらえないということになりかねませんし、事実としてそうなりつつあります。

誰が「救済されるべき」なのか?

熊代 誰が救済されるべきマイノリティなのか、というのは難しい問題ですね。しかし、例えば女性の権利がクローズアップされ獲得されてきた歴史や、子どもが虐待から守られ、教育を受けるべき存在であると認められるようになった歴史を振り返ると、これらは社会構造の変化や、経済成長を背景とした主体的な活動によって勝ち取られてきたものです。

だから、ここで私たちが論じているような、現在省みられていない「新しい困っている人たち」の実情を周知して、社会問題であると認識してもらうには、これから主体的に関わるアクターが出てきて、大きなムーブメントが起きなければならないだろうと思います。

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御田寺 しかしうんざりしてしまうのは、「私が気に入る人とだけ付き合いたい」「不愉快な人とはお近づきになりたくない、仕事をしたくない、視界にも入れたくない」と言う人たちが、同じ口で「多様性を認めよう」「寛容になろう」「差別はいけない」と言っていることの空虚さです。わかっていて言っているのか、それとも矛盾していることが本当にわからないのか。

熊代 なんとなく矛盾を感じている人はいると思いますが、気づかずに過ごしている人が多数派だと思いますね。

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御田寺 自分が利益を享受している構造の裏には、別の不利益を被っている人がいるんじゃないか、光の当たらない部分にも大きな問題が隠れているんじゃないか、ということに気付けない。そうした認知の反転可能性というか、自己言及性への鈍感さが、この便利で清潔で快適な社会の根底にはあるのではないでしょうか。

かつての社会では、気に入らない人とも付き合っていかねばならず、他人にズカズカ介入される代わりに、ある程度包摂されやすかった。現在の個人が侵害されない社会は、快適だけれど、その陰で適応できない人や自立できない人をどんどん周縁に追いやって、いないことにしてしまう。昔の方が良かったとはとても言えませんが、しかしそういう「快適な社会」のカラクリの限界、あるいはツケに、私たちは近いうちに直面することになるのだと思います。

熊代 おっしゃる通り、個人主義や社会契約に基づく関係をどんどん受け入れて、私たちは便利で快適な社会を築いてきたのですが、その反面、古い共同体の利点や長所はほとんど顧みず、資本主義とか社会契約の論理に置き換えてきたわけですね。こう言うと復古的だとか、保守反動的だと言う人もいるかもしれませんが、やはりその過程で失われてしまったものはある。現在の世の中に行き詰まりを感じている人が多い以上、その失われた価値を取り戻す努力をする必要はあるはずです。

もう一つ言っておきたいのは、人生の全てを利益やカネに換算してゆくことの恐ろしさです。新自由主義的なイデオロギーがそう簡単になくなるとは思えませんから、私たちはこの先も、本当は役立っていたものを捨てて、目先の利益を取ることに囚われて生きてゆくのでしょう。

例えば、20世紀末から結婚や恋愛は巨大なビジネスになりました。それでGDPは上がったのかもしれないけれど、経済的弱者は結婚も恋愛もできなくなってしまったという負の側面がある。出産や子育てにもそうした面があって、それが少子化の一因にもなっているのではないかと考えています。

親たちや出産を考えているカップルは、誰からも見咎められないような「正しい育児」をして、わが子をきちんと社会に適応できる人間に育てなければならないという強い圧力に晒されている。だから、手のかからない「育てやすい子」を産みたい。「育てやすい」「育てにくい」というと一見優しげですが、実のところ、少し怖い考え方ではないでしょうか。それは子育てにすら効率や生産性を無意識に求めているということだし、そういうイデオロギーの下では子育てが「コスト」や「リスク」であると認識されてしまう。そんな世の中で子どもが増えるはずがないのに、誰もおかしいと言わないわけです。

人が生きていく上で重要な要素を、どんどん目先の経済的利益と置き換えて憚らない私たちの姿勢は、折に触れて反省され批判されなければならないと思います。そして精神医療やメディアは、人生の選択の資本主義化に、自分たちが加担している可能性を振り返ってみるべきです。

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能力主義の「影」を見つめる

御田寺 例えばリクルートなどはそうした流れのど真ん中にいる企業ですが、同社が生み出したSPI(総合適性検査)で数えきれない人が不幸になった一方、幸せになった人もたくさんいます。興味深いのは、それそのものの是非よりも、物事の善悪の二面性をなぜ人が問えなくなったのか、問うてはいけないということになってしまったのかです。反転可能性を問うこと自体がしばしば「正しくない」とされてしまうのはなぜなのでしょう。

熊代 それは、世の中の根本原理に対して疑問など持たない方が適応的で、メリットが大きいからではないでしょうか。資本主義と個人主義と社会契約に則って、グローバルなルールの中で個々人が生き残っていかなければいけないことになると、その根っこに疑いの目を向けるインセンティブはないですよね。ですから私と御田寺さんが話しているようなことは、この社会においてはとても非適応的だし、非生産的だし、非倫理的で、けしからん議論ですね。

御田寺 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』はそこに一石を投じる、たいへん意義のある本だと思います。いまのところ、この本でフォーカスされている問題は、届く人にしか届かないし、その種が芽吹くとしてもかなり先のことになってしまうかもしれない。ただ、思うほど絶望的ではないかもしれません。何よりこうした本が求められ、読まれているということは、時代精神の変化の兆しでしょうから。

ここまでの私たちのやりとりを読んで、少しでも心にひっかかる部分があったのなら、ぜひ読んでもらいたいです。私たちが毎日当たり前のように享受している、健康的で清潔で、道徳的で秩序ある社会の「影の表情」を知る大きな助けとなります。

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熊代 世界情勢を見ても、現代社会の仕組みに限界が見えつつあることは明らかです。これからの時代は、既存の正義や常識がさらに激しく揺らぐことになるでしょう。そうした時代のとば口に立っている今、本書を読むことが、「正しさは一つしかない」という常識を疑うきっかけになってくれればいいなと思います。

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