2007年、AI起業家のルーク・アリゴーニは、最初に就いた見習いソフトウェア・デベロッパーの職で、63,000ドル(約950万円)稼いだ。いまでは、そのころの自分よりもましなコードを書くAIツールにかかる費用は、年間たった120ドル(約18,000円)なのだと彼は話す。
これは、アリゴーニにとって受け入れられる数字ではない。Loti AIという会社を経営し、ハリウッドスターたちの無断でつくられたディープフェイク画像を探し出す手助けをしている彼は、割安なAIツールが存在することで、企業がますます新入社員向けの仕事を排除していくことになるのではないかと案じている。
そうした構造をひっくり返し、始まりもしないうちにキャリアが終わるということがないようにしたいというのがアリゴーリの望みだ。「AIシステムをもっと高価にすれば、駆け出しの人材を雇用したいという経済的なインセンティブが生まれます」
AIが仕事を変えてしまう──あるいは完全に消滅させてしまう──のではないかという不安は常に付きまとってきた。だがAIエージェントの需要が増大するにつれ、それは切迫した懸念事項になってきている。いまやそうしたAIシステムは、営業電話をかけられるし、ソフトウェアのコードを書くこともできる。かつては人間にしかできなかった仕事をこなしているのだ。
いまのところ、悲惨な状況ではない。雇用プラットフォームZipRecruiterによれば、米国におけるインターンシップの数は今夏、概ねコロナ禍以前の水準に戻るだろうと予測される。
だがそれも、近い将来変わるかもしれない。25年6月にサンフランシスコで開催されたSnowflake Summitにおいて、OpenAIのCEOサム・アルトマンが、最新のAIツールとインターンたちを比較してみせたのだ。
次世代のAIは、より「経験を積んだ」労働者のようになるだろうと彼は話した。いくつかの企業ではすでに、管理職の人々が「たくさんのAIエージェントたち」を、かつての「比較的経験の浅い社員たち」であるかのように監督している、とアルトマンは主張した。
OpenAIはリスキリング研修など、潜在的な雇用危機を回避するための緩和策を話題に出してはいる──だが自社の提供するサービスの価格を引き上げて、AIの導入速度を遅らせるという話は口にしていない。
それがアリゴーニをやきもきさせている。最も高価な拡張機能を追加してもなお、AIコーディングエージェントには、新人エンジニアに比べてごくわずかな費用しかかからない。経験の浅い労働者たちに仕事が回ってこなければ、将来のチーム──それが人間だろうとAIマシンだろうと──を率いる際に必要とされる専門知識を身に付けることはないだろう。アリゴーニはそう考えている。
OpenAIにはコメントを求めたが、返答はなかった。
条件は「人間より安い」こと
ChatGPTが無料のチャットボットとして22年にローンチされて以来、AIの価格は不規則に変動してきた。ほとんどのAI企業は、利用範囲を限定した無料プランをいまだに提供していて、ベーシックなプランの価格は低下してきている。
最新の機能を備えた最上級レベルのプランの価格は上昇しているが、それらを提供している企業が利益を得られるほど──あるいは、導入を躊躇させるほど──ではない。
AIのプロ向けプランの価格は2022年以来急上昇している
GitHub CopilotやChatGPTのようなツールが、生成AIサービスの潮流を巻き起こした。最高レベルのサブスクリプションプランの月額は、上昇傾向にある。
スタートアップ企業の幹部やプライシング(価格設定)コンサルタントたちは、AIサービスを提供する側が激しい競争を繰り拡げているせいで低価格なのだとする。「勝利を収めるための唯一の道は、大量導入です」。そう話すのは、プライシング戦略会社MonetizelyのCEO、アジット・グーマンだ。
つまり、競合他社同様のお手頃価格を付けなければならないということだ。電力もしくはGPU(画像処理装置)の不足が大きな問題とならない限り、もしくは1社がAI市場を独占しない限り、価格の著しい上昇は起こりにくいだろう、とグーマンは話す。
サンフランシスコのスタートアップ企業Decagonは、小売業者やIT企業が使うカスタマーサービス用チャットボットを販売しているが、その料金は1度のやりとりにつき1ドル(約150円)以下だ──人間によるサポートの場合にかかる費用の約半分だ。
人間よりもチャットボットのほうがうまくこなせる事例もあるだろう。だがDecagonは、だからと言って支払う金額を上げてもいいと同社の顧客が考えることは決してない、と確信している。「AIに投資するのは、効率性を求めてのことです」。CEOのジェシー・チャンはそう話す。「人間の労働者よりも安い。それがいわばテクノロジーというものの存在意義なのです」
チャットボット1回のやりとりの売り上げから諸経費を差し引く。その金額が会社の利益となるわけだが、チャンは自社全体の収益性についてのコメントは避けた。アンドリーセン・ホロウィッツやAccelを含むベンチャーキャピタル(VC)から1億ドル(約150億円)の投資を集めたDecagonには、収益性よりも成長を優先させる柔軟さが備わっているのだ。
「価格を上げられるかというのは、常に仮定の話です」とチャンは話す。「とはいえ、われわれは現状にかなり満足しています」
「安すぎる」ジレンマ
投資会社Redpoint Venturesの常務取締役であるエリカ・ブレシャは25年5月、AIエージェントの価格設定についてあることに気づいて愕然とした。グーグルの新しいAI Ultraプランに付けられた価格は250ドル(約37,000円)だったのだ。「何もかも安すぎる」
「人々が得ている価値に対して、あまりに不釣り合いな金額です」。少なくともその倍の数字であれば理にかなう、と彼女は感じている(その同じ週に、NVIDIAのCEOジェンスン・フアンはニュースレター『Strachery』に対して、年額10万ドル(約1,500万円)のAIエージェントを「いますぐにでも」導入したい、と語っている)。
ブレシャの前職は、GitHubのCOO(最高執行責任者)で、AIの価格を設定するための基準を設ける際には、その経験が役に立った。GitHub CopilotのAIコーディングアシスタントは、22年に月額10ドル(約1,480円)からサービスを開始した。ChatGPTが登場する何カ月も前のことだ。
ブレシャによれば、GitHubは大量のユーザーを惹きつけ得る金額でいくことにした。目的はサービスの質を向上させるためのデータ収集であり、GitHubの親会社であるマイクロソフトは、そのためになら新たなツールで損失を出すこともいとわなかったのだ。
Copilotがソフトウェアデベロッパーたちに提供している価値に見合うのは、現実的にはその100倍の金額だろうとブレシャは見積もっている(GitHubのCOOであるカイル・デイグルが『WIRED』に語ったところによれば、同社が目指しているのはソフトウェアデベロッパーに取って代わることではなくその支援をすることなのであって、「価格設定には、誰もが強力なツールに手を伸ばせるようにしたい、という覚悟が反映されている」のだという)。
今日、Copilotの料金は月額21ドル(約3,100円)に達している。そして類似したほかのツールもそれにならった。そこには、Redpointそのほかから1,250万ドル(約18億円)の投資を受けたZedも含まれている。同社は5月に、自社でゼロからつくりあげたAIコードエディターの月額最低料金を20ドル(約2,950円)としてサービスの提供を始めた。
ZedのCEOネイサン・ソボは、AI企業がそのうち価格を上げていくことを期待している。なぜなら、現状の価格設定では持続不可能だからだ。ただし、人間の労働者に比べて手頃な価格にはしておきたい。誰もがAIエージェントを使って仕事を増やしたり、よりよいソフトウェアを開発したり、新たな雇用を創出したりできるようにするためだ。
「可能な限りの知能を、可能な限り低コストで使いたいと思っています」とソボは話す。「とはいえわたしにとっては、このテクノロジーを活用する駆け出しのエンジニアも潜在的にはそうした知能のなかに含まれていて、そうしたエンジニアにかかる費用も可能な限り低く抑えるというのが理想です」
Decagonのチャンは、AIコーディングツールについて同じことを感じている。「顧客の側に、もっと金を払いたいという気持ちがあるか? あとほんの少しなら? あるかもしれない」と彼は話す。だが「2,000ドル(約30万円)となると? たぶん払わないでしょう」。そしてこう付け加える。「優秀なエンジニアを渇望する気持ちは無限大です」
AI起業家たちは、AIエージェントのセットアップがもっと簡単で、しかも利用に際してもっと高い信頼性が備わっていれば、価格を上げることもできるはずだと主張する。例えば、アマゾン、メタ・プラットフォームズ、そしてマイクロソフトでシニアソフトウェアエンジニアとして働いてきたナンディータ・ギリは、AIパーソナルアシスタントには年間数千ドルでも支払いたい、という気持ちが自分にはあるのだと話す。
「ただし、厳しい条件があります──それを使っていてイライラすることが絶対にないということです」
AIがAIを監督する時代が来る前に
残念ながら、そうなるのはまだ遠い先のことのようだ。ギリは個人的なプロジェクトとして、精神的な燃え尽き症候群を防ぐためのAIエージェントを開発しようとしたことがある。「(そのAIエージェントは)わたしの打ち合わせをすべてキャンセルしたんです」とギリは話す。確かにそれは、燃え尽き症候群を防ぐための解決策のひとつではあるが、理想的なものではない。
いまでは、「AIアーキテクト」を雇用している企業もある。エージェントシステムを監督し、ミスを減らすためだ。問題は、キャリア形成の初期にいる労働者たちがいま現在機会を奪われているのだとしたら、将来、誰がそうした役割を担うことになるのだろうか、という点だ。
AIの価格を設定する際に、キャリア形成過程の急激な変化がもたらす社会的損失を考慮に入れる。そんなことを企業の側に期待することはできない、とマサチューセッツ工科大学の経済学者サイモン・ジョンソンは考えている。
政府は新入社員向けの仕事の対価に対して企業に課される給与税を下げ、人材雇用を促進するべきだ、とジョンソンは主張する。「雇用主側が負担するコストを軽減するのが、講じるべき正しい対策なのです」
アリゴーニは第3の道を選んでいる。Loti AIにおいて、駆け出しのエンジニアを安定的に雇用していくことを優先させたうえに、AIコーディングツールは使っていないのだ。雇用崩壊がやって来たときに、「自分のせいでこうなった、とは思いたくないので」と彼は言う。
(Originally published on wired.com, translated by Ryo Shinagawa/LIBER, edited by Nobuko Igari)
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