2023/06/08 - 2023/06/08
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大内教弘公が伊予興居島の陣中で亡くなった時に大内氏29代の領主に就任したのが嫡男の大内正弘公である。
正弘公は伊予の戦を引き継ぎ、細川勝元に占領された河野氏の居城湯築城を奪還して細川の勢力を駆逐し勝元の野望を打ち砕いた。時に正弘公20歳であった。
京都に起こった将軍継承問題、管領畠山と斯波家で家督相続争いが生じた折に乗じて日本を二つに分ける大戦がはじまった。
東軍の総大将は管領細川勝元、西軍の総大将は宿老山名宗全、戦いの初頭は東軍が優勢だったが遺恨重なる細川勝元打倒に立ち上がった大内弘正公は中四国九州の軍勢3万の軍勢を率いて東上。播磨の室津に上陸すると細川の領地摂津を破竹の勢いで蹂躙、伊丹の山城では秋庭・赤松軍を殲滅、池田城は陥落し京都の東寺が大内軍に味方したこともあって京都に無血入場。風前の灯であった山名宗全を救い西軍は息を吹き返した。
次に大内弘正公は船岡山に本陣を敷き東軍の本陣相国寺や花の御所周辺の戦いでは西軍主力として活躍、ついに京都の大部分を西軍の支配下に置いた。これにより東軍の勢力範囲は僅か花の御所周辺に限られ細川氏の影響力は著しく低下した。さらに大内軍が京都の七口を押さえた事で京都の治安は安定したのだった。
その後大内軍が国元に帰った事で長かった乱は終息した。
大内正弘公は文武両道の武将として有名である。新選菟玖波集の発願や自らの歌集拾塵和歌集が編纂されている。
また雪舟のパトロンとして明国渡航を支援、雪舟は帰国後常栄寺雪舟庭や国宝「山水長巻」を作成している。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
伊予国で河野通春及び河野一族を助けて細川勢を駆逐した大内正弘公は山口に凱旋した。
安芸の東西条(現在の東広島市)の戦いにも勝利した大内正弘公は伊予安芸を支配して瀬戸内海航路の利権を我物にしようとした細川勝元の野望を打ち砕き、次は京を舞台に雌雄を決する事になるが、それが応仁の乱であった。
さて、文武両道に秀でた西國一の御屋形様大内正弘公だが、現在まで残る遺跡や文物がとても少ない事に驚かされた。
なぜなら正弘公が大内文庫として集められた源氏物語や古今和歌集などの貴重な文物は陶晴賢の乱の時に不幸にして消失してしまったからである。
そう言う訳で今回は数少ない正弘公の関連史蹟を訪ねたいと思う。
最初は正弘公の菩提寺法泉寺。現在は寺の石垣や入口門の側に植えられていたシンパクの木しか残っていない。
その為ナビで検索してもハッキリした場所が指示されなかった。そのため近くまで行って足で捜すことにした。
写真は左に山口大神宮の入口、右には山口県庁がある市道。
この道を道なりに進んで山中に入った所に法泉寺跡があるはずだ。 -
道を真っ直ぐに進むと公社住宅がある。
この先は行き止まりなので三叉路の道を左に進む。 -
左に曲がる道(柳の水の標識あり)があるのここを左折。周囲には県警公舎、県庁職員公舎がありますが人家が密集しているのはこの辺りまで。
-
この先右に曲がり路を進むとそこからは山道でほとんど人家は無い。
-
舗装されている緩やかな山道を上って行くと右前方に「法泉寺シンパク」の入口の表示板が・・・。
この道地図では行き止まり。しかも見るからに細い山道。とても車が離合できる幅はない。
どうするか?付近には駐車する場所もない。
ええい、ままよ。行き止まりで方向転換できなければバックで戻ればいいと思い、右の山道に車を取り入れた。 -
シンパク及び法泉寺跡は川とは反対側のこの小道から。
往時の法泉寺の正面入口方面では無く、寺の敷地の右の角から入る印象だった。 -
法泉寺のシンパク入口に到着した。
この標識の手前に駐車できるスペースがあった。
駐車の標識は無いもののシンパク見学者の為の駐車スペースと思われた。
このスペースは狭い。軽自動車かコンパクトカー以外は方向転換が厳しいと思われた。標識の側には川が流れているので方向転換時は注意が必要。
まさかとは思ったがこんな山奥にも4件家屋があった。
車があったので今でも居住しているらしい。 -
小道を登り詰めると階段状の細い道があるがそこからシンパクが見えた。
-
これが法泉寺のシンパクらしい。
シンパクは根元から三又に分かれていた。シンパクは階段状になった土地の上の方に立っていた。
この時は周囲が草に覆われて分からなかったが、この階段上の場所は法泉寺の石垣で、ここは法泉寺の境内の中だった。 -
石垣の下からシンパクを見上げる。
-
眼の前に土塁のように見るのは法泉寺の石垣だった。
-
細い登り口を登り詰めると平地がありそこにシンパクが立っていた。
シンパクは国の天然記念物に指定されている。 -
法泉寺のシンパクの説明板。
このシンパクは大内正弘公が建立した法泉寺の山門脇に植えられていたそうだ。
法泉寺は正弘公の死後菩提寺となるが、正弘公生前は山口市宮野の常栄寺とともに正弘公の別邸として使用された。
大内氏31代義隆公が陶晴賢の乱を逃れるため一時身を寄せた場所でもある。
山口市吉敷中尾には大内義興公が建立した凌雲寺があったが足腰の弱い公家や女子供を伴った逃避行のため凌雲寺まで辿り着くのは不可能と判断し、この寺から峠を越えて長門に逃れる道を選択した。
ちなみに凌雲寺は小さな城郭ともいる構えを成しており防御にはうってつけの寺院だったが、この寺に入れないことで義隆公の命脈は絶たれたのかもしれない。 -
シンパクとはイブキの別名だそうだ。
-
シンパクの周りを回り反対側から見たシンパクの様子。
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シンパクの案内板の後ろは雑草が生い茂り山肌のように見えていたが、近づいて見ると石垣であることが分かった。
-
山門から入った寺の境内の石垣だと思われる。
草や蔦が生い茂っていた。
法泉寺の境内は規模が大きかったので、この石垣の奥にいくつもの伽藍の跡が有るのだろう。 -
シンパクがある山門跡が最初の石垣らしい。
訪れた時は軽装だったので、山中を歩き回れなかった。
冬に再び訪れて石垣や寺の基壇を確認してみたい。
法泉寺は山号を梅峯山と言い、開山は円悟碩渓(北朝崇光天皇の皇子)、
24代大内弘世公が山口滝町に創建し、29代大内正弘公が中興開基となって重建した臨済宗の寺院である。大内氏滅亡後毛利輝元が廃寺としたが寺号と大内正弘公の位牌、寺宝の一分は宇部市棯小野に伝えられ、後に浄土真宗に改宗し山号は竜岩山と新た名刹の寺号を取得している。 -
木立が立ち並ぶ前面の土壁のように見える場所は石垣である事が分かった。
寺の遺構は石垣の奥にあると想像してきる。 -
法泉寺のシンパクから後戻りして再び山道を登ると開けた場所に出た。
ナビの地図は五十鈴川ダムの近くを指し示していたのでここはダム広場らしい。
周囲の地図と何かしらの記 碑のような物が見た。
車を下りて地図を見て見よう。 -
五十鈴川砂防ダムと週辺の観光案内図でした。
私が訪れようと考えている大内正弘公の墓と諸成親王の墓はダムを渡った②と③の場所であることが分かった。
周囲の観光地は
①柳の水(山口3名水の一つ)
②大内正弘公の墓
③師成親王の墓
④白糸の滝
⑤法泉寺のシンパク(先程観光してきた)
⑥法泉寺跡(一部の石垣のみ確認できた)
⑦梅峯の滝(山口十境詩にうたわれた滝である。山道の左側に入り口の標識があったが軽装のため冬に準備をして訪れることにした。)
本日の目的は②と③及び⑤と⑥だ。その他は余裕があれば行くことにした。 -
案内板のアップ。
これから訪れるのはこの②と③だ。 -
②は大内弘公の墓。
-
そして③は師成親王の墓。
-
⑥は法泉寺跡ですが、この写真は何処から写したんだろうか?
シンパクの周辺にはこのような石垣はなかったのでもっと山の中なのかもしれない。 -
⑤は法泉寺のシンパク。
-
④は白糸の滝。五十鈴川の対岸にある滝なので一旦麓まで戻って上らなければならないようだ。
-
山口十境詩の簡単な説明文。
この中で梅峰飛瀑とある滝が⑦の梅峯の滝だ。 -
広場の片隅に山口十境詩の碑文があった。
-
梅峰飛瀑 七言律詩
銀河誰挽玉竜翔 白練懸崖百尺長
噴向梅梢雨花落 濺人珠玉帯清香
挽 引っ張る
白練 白くて柔らかくて艶のある絹
百尺長 物の長さの誇張形容
雨花 水滴を含んでいる梅の花
濺 降り注ぐ、粉末状・液状のものを少量上から散 らすようにしてかける。
帯 持つ、含み持つ。 -
(書きくだし文)
梅峰の飛瀑
銀河、誰か挽く、玉竜の翔
白練、崖に懸れり、百尺の長
噴きは梅の梢に向こうて、雨花落つ
人に濺ぐ珠玉は、清香を帯びたり -
(訳)
銀河は誰が天空へと引っ張っているのだろうか。玉竜が颯爽として天宮へと飛翔する雄姿は、その直下に高い崖の上から白い練り絹のような滝がかかっている。
その長さといったら百尺ほどもあろうか。
瀧のたぎり落ちるしぶきが梅の梢に向かって勢いよく吹き付け、水を含んだ梅の花びらははらはらと散ってゆく。
滝を仰ぎ見る人々に降りそそぐ真珠のようなしずくは、梅の清らかな香りをしっかりと帯びている。 -
次は大内正弘公の墓を訪ねよう。
墓があるのはダムを渡った向う側。 -
五十鈴川砂防ダム。
-
道なりに進んで行けども行けども正弘公の墓がある空地に行き当たらない。
行き着いた先は柳の水の駐車場。まだその時の状況が呑み込めなかった。
正弘公の墓は直ぐ分かると思っていたがそうでもなかった。
柳の水は観光する予定ではなかったが、ここまで来たら見てみようと思った。
一番気になるのがダム湖に掛かる前の橋。
ここを渡って向う側に渡ってみよう。地理的に言うとダム湖の一番奥に当たるので渡った先に何かありそうだ。 -
先程橋と言ったが橋は中央の部分、コンクリートで造られたダム湖と上流の流れを調整する関のような物に思えた。
関の上部は人が歩いて通れる程の幅があるようだ。
向う岸に渡ってみよう。 -
ここを歩いて向う岸に渡ってみた。
渡った先には左に山道があり、梅峯の滝があるとの標識があった。右には標識は無くけもの道のような細い山道があるだけだった。
いったい何処に行く道なんだろうか?
今思い起こすと、この時はこの橋を渡れば正弘公の墓があると本気で思っていたように思う。
思い込みとは恐ろしいものだ。
スマホで写した正弘公の墓の地図を見るまでは、思い込みの間違いに気付かなかった。
と、言う事で一旦仕切り直し。もと来た柳の水の駐車場まで引き返した。
柳の水までは60メートルの距離。たいした距離ではないのでついでに見てみる事にした。
柳の水までは一本道、迷う事はないが何とこんな山奥に一軒家があった。
洗濯物が干してあったので居住されている事は間違いないが道の側には額程の畑。
ここから山口市内に出るには車が無いととても不便だが、車があるようには見えなかった。
ご老人がお住まいならば、どのように生活されているのか気になって仕方がない。
田舎に老人の母を残し、都会で生活していた時の私の記憶がよみがえって胸を締め付ける。 -
柳の水の別れ道に野村望東尼滞在地の標識があった。
滞在先は熊丸市右衛門宅であったらしい。
野村望東尼は幕末の尊王攘夷派として有名な女性歌人である。
54歳で夫と死別後仏門に入って尼になる。現在の福岡市平尾に庵(平尾山荘)を構え勤王の志士平野国臣らと交流を深め、山荘に志士を匿い密議の場所を提供した。元治元年(1861年)第一次長州征伐の後保守派や狂信的な攘夷派らに命を狙われて、九州に脱出した高杉晋作を匿ったことで知られている。
その後福岡藩で尊王攘夷派の弾圧が始まると望東尼は姫島に流罪となった。
しかし翌年晋作の部下に救出され、下関の白石正一郎宅に匿われた。晋作が病の床につくと晋作の愛人おうのと看病し晋作の最期をみとった。
その後山口の小田村伊之助(後の楫取素彦)の下に身を寄せた。慶応3年(1867年)討幕軍の征東を耳にして三田尻(現在の防府市)に赴き、防府天満宮に参篭して断食しながらその成功を祈ったが体調を崩して亡くなった。
墓は防府市桑山の山中にある。
野村望東尼は山口滞在中は熊村宅にも滞在し近くにある柳の水の和歌を幾つか詠んでいる。
なお熊村宅に続く写真の道は大内義隆公主従が陶晴賢の乱で長門に落ち延びた時に歩いた道である。
義隆公主従はこの道を通って山口市吉敷の大峠を越え、長門に逃れたそうだ。 -
野村望東尼の滞在地はここら300mの距離らしい。
この標識の手前に右に折れる道があり、その先に柳の水があるらしい。 -
付近の草むらは蝮が出没するそうで、注意の看板があった。
草むらに出没するのなら道にも出て来るだろうから注意しながら道を進んだ。 -
この道が柳の水へと続く道。
灰色の小石が敷き詰めて、褐色でまだら模様の縞があるので毒蝮はすぐに判別できる。 -
柳の水が見えてきた。
-
コンクリート製の桶にパイプから注ぎ込まれている清水が柳の水である。
左側に柄杓が2つあるが、この柄杓で汲んで清水を飲むことができる。
私も飲んでみたが癖も無くとても美味しい水だった。
山の湧き水なのでミネラルタップリだ。湧き水はとても飲み易く美味しかった。 -
山の湧水だが水の量は結構あるようだ。
柳の水は一度も枯渇することなく流れ続けているとのことだった。 -
柳の水の説明板。
茶の湯として有名な京都三名水にちなんで大内時代に名付けられた「山口三名水」の一つで、お茶席に使う水として名実共に当時を代表する名水だった。
他の2か所の水は渇れてしまったそうだ。 -
この近くに滞在していた勤王歌人野村望東尼は柳の水を題材とした和歌を幾つか詠んでいる。
そのうちの一首が「滝村の水上清き柳水 さてこそ末 も濁らざりけり」。 -
先程の和歌とともに詠まれた和歌が掛けられていた。
-
もと来た道を引き返すと公園のような場所に出た。
来る時は右車窓に注意しながら車を運転して来たはずなのだが、この景色には全く気がつかなかった。
大内正弘公の墓はこの奥にあるようだ。 -
反対側には五十鈴のダム湖だ。
湖の向こうに見える山が鴻の峰。山頂には高嶺城とい山城があるが建てられたのは陶晴賢の乱の後の大内義長時代の事。
大内の御屋形様は山口には城を築かなかった。甲斐の武田信玄と同じである。 -
大内正弘公の墓の説明板。
簡潔に大内正弘公の事が説明されていた。
大内正弘公は応仁の乱では実質的な西軍の大将として細川勝元率いる東軍と戦い東軍の本陣を撃破、京の町の大半を支配して西軍の優位を決定づけたが、大内氏の宿敵細川勝元は大内軍の兵力を削ぐべく大内家の内乱を画策。その誘いに乗ったのが、正弘公から国元の留守を任されていた大内教幸(道頓)だった。
教幸は先代教弘公の実兄だったが教弘公との家督争いに敗れていた。
浮かび上がるチャンスとばかりに赤間関(現在の下関市)で東軍として挙兵した。
これに国元にいた長門守護代陶弘護ら有力武将や石見の吉見氏や益田氏ら多くの武将がこれに参加し、幕府も道頓が大内氏当主と認めたのだった。
更に摂津で戦っていた仁保弘有ら有力武将らまでが呼応、道頓側へ集団離脱した。
結果大内家は真っ二つに。大内正弘公、大ピンチだ。
その後事態が動く。国元で道頓に味方していた陶弘護や益田氏らが正弘公方へ転じて一斉に蜂起。道頓を敗走させたのだ。
陶弘護が道頓に味方したのは当面の計略だったそうだ。この時陶弘護は弱冠16歳、知勇に優れた武将だったがすでに陶氏の若き当主として能力を如何なく発揮していた。
陶弘護らに蜂起を命令したのは正弘公の母である。
正弘公の母は西軍の総大将山名家の出身で自ら益田氏に連絡をとるなど分裂した家中を統率した。
スゴ腕ママの活躍と陶弘護の智略で内紛を乗り切る事ができた。 -
では正弘公の墓を訪ねよう。
墓は杉木立の中の細い山道を上った所にあった。 -
大内正弘卿墓碑。
長州藩最後の第14代藩主毛利元徳(もとのり)が建立したものである。
正弘公の墓は宝篋印塔だった。
私は何故こんな山奥の辺鄙な場所に正弘公の墓があるのか不思議で仕方がなかった。
文武両道に秀でた名将として名高い西国一の御屋形様の墓所がこんな山奥にあるなんて思ってもみなかった。
調べた所、正弘公はとても風流人で、墓所の場所から見える鴻の峰や山口の町、法泉寺の梅や桜の花がお気に入りで、死後はこの地に埋葬するようにと言い残していたそうだ。
法泉寺から見下ろす山口の町の景色も殊の外お気に入りで、晩年は別宅のように法泉寺に詰めていたそうだ。 -
大内正弘公の墓は宝篋印塔だった。
-
この宝篋印塔全体的にバランスが悪い。
塔の上部が大き過ぎるように感じるのは私だけだろうか? -
更に気になったのは正弘公の墓の右にあったこの墓だ。
この墓いったいだれの墓だろうか。
色々調べたがこの墓の記述が見当たらない。 -
私の推測だがこの墓は正弘公の正室今小路福子(今小路家は二条家の分家)だと思われる。(今小路福子は第30代義興公の正母である)
-
そして正室福子の向かい側にある墓は側室の勝子の墓と思われる。
正弘公の死後嫡男義興公と側室勝子の子高弘との間に後継者争いが起きるが、これは次の大内義興公の時に記述したい。 -
側室勝子と正弘公の墓。
-
次は師成親王の墓を訪ねよう。
親王の墓は正弘公の墓の右側に有るはずだが、草が生い茂って道が分からない。
人が歩いた形跡もないので、兎に角杉木立の間をぬって行く事にした。
すると山道らしき所に出た。ここを歩いてみよう。 -
師成親王の墓が杉木立の間から見えてきた。墓は宝篋印塔だった。写真は墓をアップで写したもの。
師成親王は後村上天皇の第五皇子で南朝の皇子である。南朝では兵部郷であった。
楠木正成の曽孫楠木正顕らとともに南朝残党を引きいて応永の乱では大内義弘に味方し、堺で足利幕府軍と戦った。義弘公が堺で討ち死にした後は大内勢の残存兵力とともに山口に逃れてきた。山口では法泉寺に入って同寺に住した。その後伊勢南陽寺に住して再び山口に戻り法泉寺で死去したといわれている。
師成親王は法泉寺に住していた時に出家して臨済宗仏光派に属し、竺源恵梵(じくげんえぼん)と号している。
師成親王はじめ旧南朝方の武将たちが大内義弘公の下に馳せ参じたのは、義弘公が南北朝合一で南朝の師成親王らと膝を付き合わせて幾度となく協議を重ね、合一の合議案に漕ぎ着けた事による。
南朝方は義弘公の人となりを信じて合議案に賛同、三種の神器を北朝に返還したのだった。
ところが足利義満は三種の神器が手に入るや否や南朝と結んだ合議案を全て破棄し南朝を追い詰めた。
義弘公の義挙は義満に合議案実行を迫るための物であり、南朝を助けるためであることを理解したからだった。 -
師成親王の墓。
-
伊勢の南陽寺にいたというのは「新葉和歌集」の奥書で分かっている。
-
師成親王が山口で薨去したという話は周防説と呼ばれ、一方伊勢で薨去したという話を伊勢説と呼んでいる。
現在では周防説は有力ではないようだが、師成親王が書写した「新葉間歌集」や「李花集」は大内氏に相伝され、その文化活動に少なからず影響を与えたことに相違ない。
さらに気になるのが師成親王の墓だ。
山口の墓は立派な宝篋印塔、しかも常に親王をお守りしながら御使いする従者の物と思われる墓が2基あり一緒に埋葬されている。
一方伊勢説の墓は師成親王の塚で三重県鈴鹿市にある。鈴鹿市にある師成親王の墓は丸い石が二つ積み上げてあるだけの塚だ。
どちらの墓が親王の墓として相応しいか一目瞭然だろう。
どう考えても山口の宝篋印塔の方が皇子の墓として相応しい。もしこれが師成親王の墓でないなら一体誰の墓だろうか。 -
師成親王の墓の側には2基の墓があった。
親王の正室と側室の墓と考えられないことは無いが、親王が出家するまでに婚姻したという資料が見当たらない。
師成親王は南朝の武将として楠木正顕らの配下を指揮して北朝と戦っていたのであり婚姻しなかったとする方が現実に即しているのかもしれない。
次の旅行記では画聖雪舟と正弘公のかかわりについてお送りしたいと思います。
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