2019年に橘玲が『上級国民/下級国民』を出したとき、俺たちはまだ「知識社会化・リベラル化・グローバル化」という流れが不可避だと思っていた。
でもそれから6年。コロナ、物価高、政治不信を経て、**リベラルな理想そのものが「敵」として見られ始めている**。
今、目の前で起きているのは単なる格差拡大じゃない。**「リベラル・エリートvs普通の人々」という新しい分断**だ。
橘の『上級国民/下級国民』は、その理想の裏側で進行する**「上級」と「下級」への静かな分断**を描いた本だった。
でも、この本が前提にしていた「リベラル化の進行」という大前提が、2020年代に入って揺らぎ始める。 <h3>o- **</h3>
2020年のコロナ禍は、「誰がリモートで働けるか」をあからさまにした。
この分断は、橘が描いた「知識社会の勝者/敗者」をリアルタイムで演出する舞台装置になった。
2022年以降の物価高は、エネルギーと食料品を中心に中間層の生活を圧迫した。
統計上も、**所得分布全体が下方にシフト**し、「生活が苦しい」と答える層が増加している。
「真面目に働けば中流」という物語は完全に終わった。 <h3>o- **</h3>
そしてここからが本題だ。
2010年代まで、「自分らしく生きる」「多様性を尊重する」というリベラルな価値観は、多くの人にとって**「解放の約束」**だった。
でも、低成長と格差固定化が続く中で、それらの言葉は次第に別の意味を持ち始める。
さらに、ネット上で可視化されたのは、**「リベラルを名乗る人たちの不寛容さ」**だった。
こうして、「リベラル=寛容」というイメージは崩壊し、**「リベラル=マウント取ってくるエリート」**という新しいイメージに置き換わった。 <h3>o- **</h3>
もはや、「リベラルか保守か」ではなく、**「誰も自分たちを見ていない」という疎外感**こそが核心になっている。 <h3>o- **</h3>
この土壌の上で、ポピュリズムが再び息を吹き返す。
ポピュリズムとは、「純粋な民衆 vs 腐敗したエリート」という単純な対立構造を描き、**政治家・メディア・リベラル知識人をまとめて「敵」に仕立てる言説**だ。
重要なのは、多くの人がポピュリズムを**「強固な右派イデオロギー」として選んでいるわけではない**という点。
それはむしろ、**「リベラルも保守も信用できない」「生活感覚を無視され続けてきた」という怒りの出口**として選ばれている。
だからこそ、政策の整合性より、**「はっきりものを言う」「既得権を叩いてくれそう」というスタイル**が支持される。 <h3>o- **</h3>
この視点から見直すと、「上級国民/下級国民」というラベルも変質しているように見える。
2010年代まで、この言葉は主に**「事故を起こしても逮捕されない高齢官僚」**など、古典的な既得権層への怒りを表していた。
しかし2020年代には、**リベラルな知識人、都市部の専門職、さらにはSDGsや多様性を掲げる企業やメディア**までもが「上級国民」として揶揄されるようになった。
「リベラル知識人」はなぜ嫌われるのか?ノーベル賞作家が暴いた欺瞞とは | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン
こうした変化を精神史としてまとめるなら、2010年代までの「リベラルな知識社会の内側に生じる上級/下級の分断」に、**次の2行を付け足す必要がある**。
自由、平等、多様性、自分らしさ——これらは本来、多くの人を解放するはずの言葉だった。
だが、低成長と格差の固定化が続く状況では、それらは**「達成できない理想」「できない自分を責める基準」**として働き、自分の現実を否定する言葉に変わっていった。
上級/下級という枠組みは、いまや収入や学歴だけでなく、**「どちら側の言葉を話しているか」「どちら側の世界観を信じているか」**を区別する境界線にもなりつつある。
リベラルな言葉を使う側は、自覚の有無にかかわらず「上級国民」として見られ、
それに違和感や怒りを覚える側は、**「自分たちを侮辱してきた世界」そのものから距離を取り、簡単で感情に寄り添ってくれる語りへと引き寄せられていく。** <h3>o- **</h3>
この2行が付け加わったとき、「上級/下級国民」という図式は、
であるだけでなく、
としても読み替えられる。 <h3>o- **</h3>
弱者男性だが、読み辛いけどお前より現状を認識できてるリベラルは存在しなさそうだな 重要なのは、多くの人がポピュリズムを**「強固な右派イデオロギー」として選んでいるわけ...