「育ちがいい」とトクして「育ちが悪い」と損をする、この社会の現実

あるベストセラーから考える

「マナー指南書」が売れているワケ

『「育ちがいい人」だけが知っていること』という書籍がベストセラーになっている。

この、マナースクールの主宰者によって記された書籍はテレビや雑誌でもたびたび取り上げられ、30万部以上の売り上げを記録しているという。一方、Amazonのレビューを見ると賛否両論……というより否定的な指摘が目につく。内容が薄っぺらい、誰でも知っていることだ、くだらない、などなど、かなりの言われようである。

しかし、ベストセラーになる本にはベストセラーになるだけの背景があるものである。なんらか、人々に響くものを宿していたからこそ、『「育ちがいい人」だけが知っていること』はベストセラーになったはずなのだ。少なくともそういう目で本書を眺め、なぜこの本が必要とされているのか考えてみる余地はあるはずである。

-AD-

本書を実際に手に取って内容を確かめてみると、個々のアドバイス自体はまともである。

たとえばホテルのチェックアウトの時の所作として、

180 タオル類はまとめておく
チェックアウト時には、使用したタオル類は軽くたたんでひとつにまとめ、バスルームにおいておきましょう。「使わせていただきました」「お世話になりました」という気持ちは常に形で表したいものですね。

このようなことが書かれている。

また、本書にはメールの書き方やSNSの使い方など、リテラシー(読み書き能力)に関わるアドバイスが多数含まれていると同時に、現代社会の基礎教養やビジネス作法を教えてくれるような箇所もある。

Photo by iStock

社会のなかで円滑に人間関係を進めていくための方法論を幅広く紹介しているという意味では、本書をソーシャル・スキル・トレーニング(social skill training:SST)の実用書とみなすこともできよう。

とはいえ、本書がベストセラーになった理由が「社会適応に役立つ内容だから」だけとも思えない。なぜなら、これに類する内容のビジネス書や生活指南書は毎年のように出版されているからだ。

本書に対する人々の反応を見るに、本書を特徴づけているのはやはり、「育ちのよさ」というキーワードだ。ともすればコンプレックスを刺激する「育ちのよさ」がタイトルに掲げられ、文中にも「育ちのよさ」という言葉がたびたび登場するからこそ、本書はたくさんの人を惹きつけ、話題になったのではないだろうか。

ではなぜ、今、「育ちのよさ」が問題になるのか。

-AD-

複雑化する能力主義と「育ち」の問題

かつて、いわゆる「一億総中流」と言われた時代には、「育ち」は今日ほど意識されていなかったはずである。もちろんハイソサエティな領域では「育ち」が絶えず値踏みされていたし、収入面で日本人が横並びになったわけでもなかった。それでも、当時は「育ち」を意識せずとも就職できる人、結婚できる人が多かった。むしろ、戦前まで「育ちのよさ」を示す兆候とみなされていた所作や振る舞いが否定され、アメリカに影響された、自由を重んじる若者文化の所作や振る舞いが台頭したのが戦後日本の風景ではなかっただろうか。

戦後日本の人々が問われたのは、学歴や実力そのものだった。太平洋戦争という”リセット”を経たことによって、日本社会の格差は経済的にも文化的にも縮まった。「育ち」が悪くても難関大学に入学して出世する人、中卒や高卒でも実力で這い上がっていく人がたくさんいて、そうした人々が憧れの的にもなっていた。

出自や「育ち」より、学歴や実力によって社会的地位が決まるという意味では、戦後日本は能力主義(メリトクラシー)的な社会であり、出自による機会の不平等が薄まった社会だったといえる。

ところが戦後から75年が経つなかで、日本社会は徐々に変質していった。いったん縮まったはずの格差は世代を経るにつれて再び拡大し、難関大学の入学者は経済的にも文化的にもアドバンテージのある家庭の子息に占められつつある。田中角栄のような、低学歴のヒーローが憧れの的になることも無くなって久しい。

所作や振る舞いも「能力」になる

と同時に、最近の入試や就活、婚活といった場面では、身に付いている所作や振る舞いが逐一チェックされるようになり、それ自体、選抜の指標とみなされるようになった。

身に付いている所作や振る舞いが逐一チェックされ、選抜の指標になったということは、直接的には出自や「育ち」が問われないとしても、生育環境のなかでどれだけ好ましいソーシャルスキルや生活習慣を身に付けてきたのかによって選ばれやすさが変わり、ひいては、年収や社会的地位が左右されるようになったということでもある。

-AD-

社会学者の本田由紀は、著書『多元化する「能力」と日本社会』のなかで、バブル崩壊後の日本社会では、それまでの能力主義よりも多元的に能力を評価する、より複雑化した能力主義(ハイパーメリトクラシー)が台頭してきた、と指摘した。実際、入試でも就活でも婚活でも、たとえば学歴一辺倒な人材はあまり評価されなくなっている。協調性や創造性にも優れた個人、コミュニケーション能力にも秀でた個人が求められるようになり、受験生も就活生も婚活志望者も、そのことを理解したうえで選抜に勝ち抜こうとしている。

より複雑化した能力主義のもとでは、ありとあらゆる所作や振る舞いが能力のシンボルとして、または能力そのものとして評価され得る。たとえば、丁寧なあいさつや適切な身だしなみ、季節の行事を楽しむ感性なども、能力のシンボルとして、または能力そのものとして評価の対象になり得る。

それらは業務能力に直結しないとしても、円滑にコミュニケーションできる人物や、快適で文化的なオフィスにふさわしい人物を連想させる。目上の人との宴席で悪い印象を与えるおそれの少ない人物や、機知や心遣いが求められる場面をこなせる人物をも連想させるかもしれない。入試や就活の面接官はこうした特徴を見逃さないようにしなければならないし、入試や就活に臨む側は、できれば、こうした特徴をアピールできなければならない。

『「育ちがいい人」だけが知っていること』が売れている背景として、こうした、より複雑化した能力主義の浸透を念頭に置いておく必要がある──ありとあらゆる所作や振る舞いを評価する目線が、ハイソサエティな人々だけのものから、一般的な就活や婚活の場面にまで浸透し、評価する側はもちろん、評価される側までもがそのことをわかっているからこそ、あらゆる所作や振る舞いを点検し、矯正しなければならなくなったのである。

かくして人々は、『「育ちがいい人」だけが知っていること』のような書籍を買い求め、自分自身の所作や振る舞いを点検し、矯正するよう駆り立てられていく。

そうしなければ入試や就活や婚活で不利になってしまうに違いないからだ。

-AD-

「育ち」に根ざした不公平な競争

書籍をとおして人々が所作や振る舞いを点検し、矯正するようになったのはもちろん今に始まったことではない。歴史を遡ると、約500年前、デジデリウス・エラスムスが記した『子どもの礼儀作法についての覚書』にひとつの起源をみることができる。

この『子どもの礼儀作法についての覚書』は、上流階級の子弟にふさわしい礼儀作法を解説するものだったが、活版印刷をとおしてブルジョワ階級(中産階級)の子弟にも読まれるようになり、当時のベストセラーとなった。この他にも様々な類書が次々に出版されてはベストセラーとなり、ヨーロッパじゅうに礼儀作法を広めていった。

洗練された礼儀作法は、社交場面で恥をかかないためにも、他人に不快感を与えないためにも是非とも身に付けておくべきものであると同時に、自分たちの卓越性や優越性を誇示するためのものでもあったから、親から子へ積極的に伝授された。そして親世代にとっては習得のために努力を伴った礼儀作法も、子世代には自然に身に付くものとなっていった。世代が後になればなるほど、ますます礼儀作法は洗練されていく。

こうした礼儀作法書ブームをとおして、これからブルジョワ階級の仲間入りをする人が適切な所作や振る舞いを学びやすくなった、という見方はもちろん可能だ。だがそれだけではない。ブルジョワ階級に必要不可欠な礼儀作法は親から子へ伝授されるため、世襲資産(この場合は文化資本としての世襲資産)の一部になった、という見方もまたできる。というのも、子ども時代に身に付いていなかった礼儀作法を大人になってから矯正するのは簡単ではなく、幼少期から身に付けてきた人のほうが優雅かつ自然に振る舞える可能性が高いからだ。

礼儀作法は「世襲資産」である

世襲資産としての性格を帯びてからの礼儀作法は、だから「育ち」と切っても切れない関係にあったといえるし、これは、「育ち」に根ざした不平等な競争だともいえる。「育ち」に恵まれた人なら苦も無く身に付けられる礼儀作法を、「育ち」に恵まれていない人は一生懸命に身に付けなければならない。ましてやそれが、複雑化した能力主義のもとで評価の対象となり、入試や就活や婚活を左右するなら尚更である。

『「育ちがいい人」だけが知っていること』は、それを買い求める一人ひとりにとって、現代社会をサバイブするための参考書たりえる。そのかわり、本書がベストセラーとなり、所作や振る舞いをみんながますます意識するようになることで、この礼儀作法競争はますますエスカレートしていくのだろう。そして礼儀作法は「育ちのいい人」に絶えずアドバンテージを与え、そうでない人に後追い的な努力を強いるから、人々は「育ち」をますます意識せずにいられなくなり、劣等感やコンプレックスの焦点になりやすくもなる。

-AD-

こうしたことが起こっているのは、礼儀作法に限ったことではあるまい。たとえば清潔や健康なども複雑化した能力主義にもとづいて評価の対象、選抜の指標たり得るようになれば、清潔な家庭や健康的な家庭で育った人はアドバンテージを得、不清潔な家庭や不健康な家庭で育った人はビハインドを負うことになる。それらがもたらすアドバンテージやビハインド自体は小さなものかもしれないが、社会人になる前から、否、高校や大学に入学する前から背負い続ける蓄積効果は侮れない。

だとしたら、複雑化した能力主義の浸透した社会とは、「育ちのいい人」がさまざまなアドバンテージに後押しされやすく、そうでない人がさまざまなビハインドを背負わざるを得ない、そういう社会ではないだろうか。

礼儀作法をますます重視する社会、清潔になり健康的になっていく社会は皆にとって本当に望ましいものだったのだろうか? 『「育ちがいい人」だけが知っていること』が書店に平積みされているさまを見ていると、それが私にはわからなくなる。少なくともここに、複雑化した能力主義ならではの不平等を透かし見ることは可能である。

おすすめ記事