エリック・ランダーは“ビッグサイエンスの重鎮”として知られる人物だ。遺伝学者、分子生物学者、数学者の顔をもち、世界規模のプロジェクトである「国際ヒトゲノム計画」を主導した彼は、マサチューセッツ工科大学(MIT)とハーバード大学の共同研究機関で、自身が設立に寄与した権威ある「ブロード研究所」の理事も務めている。「天才賞」と呼ばれるマッカーサー財団からの助成金授与や14もの名誉博士号をはじめ、無数の栄誉に浴した人物でもある。
また、ジョー・バイデンの大統領就任時に、直属の科学顧問に指名され、米国科学技術政策局(OSTP)の局長に任命されたことでも知られる。彼は部下に対するパワハラ疑惑によりこの仕事を失ったが、その後、非営利の科学研究組織「Science for America」の代表に就任した。
こんな経歴をもつランダーが、人類の長年の夢である“クリーンな核融合エネルギー”の実現によって気候危機の解決を目指す、シリコンバレーのスタートアップ経営に乗り出した。彼の目的は何なのだろう。ランダーが新たに立ち上げ、最高経営責任者(CEO)を務める「Pacific Fusion」には、核融合研究で知られるローレンス・リバモア国立研究所やサンディア国立研究所の出身者や、核融合発電の模擬実験や施設稼働の専門家など、トップレベルの科学者たちが揃っている。
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Pacific Fusionは、いつまでたっても10年、20年先のことと言われ続けている核融合発電の夢を追う、数十もの企業の仲間に加わったのだ。状況は変わっていない。Pacific Fusionの発表によると、実用的な商用核融合プラントの稼働は2030年代に入ってからになる見込みだという。しかし、これまでと違うのは、そこに確固たる成功への道筋があるという点だ。少なくとも、この名の知られたCEOはそう断言する。
23年5月、Science for Americaが発表した核融合技術の進歩を伝える報告書には、最新の革新的技術がいくつも引用されている。その前年には、ローレンス・リバモア研究所の科学者グループが、実験に要したエネルギーを大幅に上回るエネルギーを創出する「ターゲットゲイン」と呼ばれる成果を得ている。この報告書を発表した直後、ランダーはこの分野の科学者たちと共同で、人目を忍ぶように会社を設立した。共同設立者のなかには、アルファベット傘下のXやテスラといった企業の研究室などに勤務した経験をもつ者もいた。
無尽蔵のクリーンエネルギーへの挑戦
カリフォルニア州フリーモントにあるPacific Fusion本社内の会議室で、ランダーに話を聞いた。彼は、核融合技術の商用化にようやく実現の可能性が見えてきた理由、Pacific Fusionがその夢を叶える最有力候補となりうる理由を語ってくれた。
彼の話は核融合の基本原理を説明することから始まった。核融合とは水素を「押しつぶして」ヘリウムに変え、大量のエネルギーを放出させることだという。太陽をはじめとする恒星ではこの核融合反応が自然に起きているが、惑星である地球上でこの現象を効率的に発生させる方法を人類はまだ発見できていない。
しかし、無尽蔵のクリーンエネルギーという潜在的な報酬が、50社ほどのスタートアップをこの壮大な夢の追求に駆り立てているのだ。これらのスタートアップのなかには、サム・アルトマンやビル・ゲイツのような億万長者の支援を受けている企業もある。現在は数カ月に一度のペースで、こうした“挑戦者たち”が画期的な技術を発表しているようだ。
自分たちはほかと違うとPacific Fusionが断言する根拠は何なのか? 彼らが取り組んでいるのは、「pulsed magnetic fusion(パルス磁気融合)」と呼ばれる核融合方式だ。重水素‐トリチウム燃料を詰めた小型容器をチャンバーに挿入し、そこに強力な電気パルスを送り込んで容器内の燃料を磁気的に圧縮することで核融合を誘発するという(詳細はこちらの論文を参照いただきたい)。
「非常に興味深い手法です。考え方としては数十年前から知られていましたが、実現の可能性が見えてきたのは、国立研究所の研究が実を結び始めたわずか2年ほど前のことです」とランダーは言う。この技術を使って、システム自体の構築と稼働に費やされる量をはるかに上回る膨大なエネルギーを生み出すには、科学的な難問をいくつも解決する必要があるが、それらはすべて解決済みだと彼は主張する。この言葉は、今後Pacific Fusionの研究チームの誰に会っても、繰り返し聞かされることになるだろう。ただし、エンジニアリング面の課題がいくつか残されており、その解決はかなり難しそうだ。
ほかにも、商用核融合発電プラントのプロトタイプ構築のための資金調達という難問が控えている。理論上、世界のエネルギー問題を解決に導くはずのそうしたプラントの数は、数百基に及ぶだろう。これにより既存のエネルギー供給事業が打撃を受け、世界が大混乱に陥る恐れがあるが、それはまた別の話だ。
このような、極めて困難だが無限の可能性を秘めた「ムーンショット」計画の資金は、どこから調達すればいいのだろうか。リスクを承知のうえで投資する人が現れたとしても、報酬を受け取れるのはかなり先のことになりそうだ。Pacific Fusionの計画によると、2030年代初めに本格的なデモ装置を完成させ、それからさらに10年ほどかけて商用システムの構築を目指すという。
総額9億ドルを超える資金調達
そこで支援を申し出たのがベンチャー投資企業「General Catalyst」のCEOであるヘマント・タネジャだ。長年ランダーと仕事をしてきた元グーグルCEOのエリック・シュミットが、タネジャとランダーを引き合わせたという。
タネジャが提案したのは、Pacific Fusionが一定の目標を達成するごとに、少しずつ時間をかけて投資家からの資金提供を受けるという方法だった。Pacific Fusionの人々は、「初めはこの案にやや懐疑的でした」とタネジャは言う。「しかし、最終的にこの仕組みのよさを理解してもらうことができました。莫大な資本と長い時間を要するこうしたムーンショットは、初期段階で投資家たちに高いリスクを強いることになるからです」
タネジャはほかのベンチャー投資企業数社と、シュミット、リード・ホフマン、パトリック・コリソン、ジョン・ドーア、ムスタファ・シュリーマンらシリコンバレーの大物投資家たちの参加を得て、総額9億ドル(約1,350億円)を超える資金調達を実現した。コリソン、シュミット、タネジャの3人は、Pacific Fusionの取締役に就任予定だという。
結局のところ、プロジェクトの成否は燃料ペレットに電気パルスを当てる瞬間までわからない。これといって特徴のないオフィスパークの中にあるPacific Fusionの施設を訪問し、初期のころに開発された機器類の一部を見学させてもらった。
施設に足を踏み入れると、作業デスクと会議室のドアが並ぶほかに目を引く調度品は何もない。しかし、奥まったところにある巨大な一室は“マッドサイエンティストの隠れ家”の様相を呈し、そこには高さ25mほどの白いタンクのほか、巨大な洗濯おけを思わせる複数のタンク、チカチカ光る大量の電子機器、複雑に入り組んだパイプやケーブルが置かれている。
タンクには研究チームの人々が「ブリック(レンガ)」と呼ぶ、無数のモジュールが収められる予定だという。モジュールの中身は、付属のスイッチを入れると150ナノ秒(1ナノ秒は10億分の1秒)以内に放電を始める、蓄電容量10万ボルトの特別仕様のコンデンサーだ。発電に要する経費削減のため、「ブリック」は大量生産が可能な設計となっている。実際の機器類を使った実験に加え、開発作業の随所に模擬実験がとり入れられている。共同創業者のひとりであるC. レランド・エリソンは、かつて勤務していたローレンス・リバモア研究所で、この種の模擬実験を数多く手がけている。
長期的な展望をもつスタートアップ
Pacific Fusionの研究チームは、まるで彼ら自身が電気パルスを浴びたかのように活気にあふれている。「十分な発電量を得るために必要な条件は、あと一歩で揃うはずです」と、米エネルギー省での勤務経験をもつ科学者で、現在はPacific Fusionの最高技術責任者(CTO)を務めるキース・ルシェンは言う。
もっとも、競合企業の大半が同じことを言うに違いない。しかし、彼らの前にあるのは長く険しい道のりだ。ほとんどのスタートアップにとって、繁栄の時期は数年しか続かない。例えばOpenAIは、11人の創業者のうち9人が、当初の目標だった汎用人工知能(AGI)の完成を見ることなく、早々に会社を去っている。驚くべきは、Pacific Fusionがあまりに長期的な展望をもっていることだ。最高にうまくいった場合でも、Pacific Fusionの、あるいは核融合発電に取り組む別のスタートアップの、目標が達成されるのは数千日後のことだろう。
「2030年代に入るまでの数年間で当社が目指すのは、照射に要したエネルギーを上回る電力を1回のパルス照射で生み出す技術を、世界で最初に完成させることです」と、米エネルギー高等研究計画局(ARPA-E)出身で現在はPacific Fusionの社長を務めるウィル・リーガンは言う。「同時に、コスト削減など数多くのビジネス上の課題にも取り組まなければなりません」
話を聞いたPacific Fusion社員のうち、膨大な時間を要するミッションに対しておじけづく様子を見せる者はひとりもいなかった。「これほど大がかりで、この先10年もの間ずっとワクワクできるような仕事はほかに考えられません」と、元ベンチャー投資家で戦略担当者としてXに勤務した経験をもつ最高執行責任者(COO)のキャリー・フォン=メンチは言う。「小さな3つの仕事に数年ずつ関与するより、この先の10年間をこのプロジェクトに費やす方がずっといいと思っています」
危険を伴う賭けだ。しかし、すべてがうまく運んだ場合はどうなるだろう。核融合発電に少しでも成功の可能性があるなら、地球とその住民である人類にとってそれは偉大な勝利となるはずだ。モデルの訓練と操作に大量の電力を要するAI企業にとってもそうであることは言うまでもない。莫大な利益を得るかもしれない投資家たちをねたむことは控えよう。うまくいけば、いつの日か新聞に載るであろうエリック・ランダーの死亡記事から、大統領に恥をかかせたあの一件が除外されるかもしれない。
(Originally published on wired.com, translated by Mitsuko Saeki, edited by Mamiko Nakano)
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雑誌『WIRED』日本版 VOL.54
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