アップルで開発者用ツールをいくつもつくり上げ、グーグルの人工知能(AI)インフラ構築チームの中核を担い、テスラでは自動運転部門トップとしてイーロン・マスクと激しく衝突したクリス・ラトナー。そんな彼は、あるときから自身のライフワークを明確に意識するようになった。AIが世界を席巻し、それを動かすチップへの需要が高まっていた。しかし、それらのチップ用のソフトウェアスタックはわずか数社の大企業に支配されていた。開発者たちはAI環境に散らばるさまざまなチップを使い、自分たちのコードを容易に実行できるようになるのだろうか?
“標準ソフトウェア”を目指して
この問いに対するラトナーの答えがModularだ。彼はこのソフトウェアスタートアップを、グーグル時代の元同僚であるティム・デイヴィスと共同で2022年に設立した。Modularは、クラウド事業がGPUやCPU(生成AIを支える高性能チップ)から可能な限り性能を引き出せるよう支援する、統一的なソフトウェアレイヤーを開発している。
また同社は、Pythonをベースとする新たなプログラミング言語も構築しており、開発者はこの単一の言語を使って、複数のGPUやCPU上で動作するAIアプリを構築できる。Modularの基本方針は、開発者がひとつのチップ用にアプリを構築した場合、それを別のベンダーのチップ上で動かすために面倒な手続きを踏む必要がないようにすることだ。
しかしModularの長期的な目標はさらに野心的だ。NVIDIAやAMDのような企業が業界に対してもつソフトウェアの締め付けを緩め、AIチップ用の事実上の標準ソフトウェアになることである。
「コンピューティングパワーへのニーズは爆発的に拡大しているのに、統一されたコンピューティングプラットフォームが存在しないのです」とラトナーは言う。「今後、ソブリンAI(国家主導のAIシステム)があらゆる場所に存在し始めるでしょう。Stargate(のAIインフラ)も多数出現するはずです。一方で異なるユースケースに最適化された異なるタイプのチップが存在するため、それらを統合するレイヤーが必要なのです」
巨額投資が集まる
Modularの主張を裏付ける動きが現れている。NVIDIAやAMD、アマゾンといった巨大AI企業がModularと提携し、市場の動向を探っているのだ。GPUクラスター企業のSF Computeも、Modularと共同で大規模AIモデル向けに世界最安値をうたうAPI構築を完了した。25年9月下旬時点で、Modularの開発者向けプラットフォームはNVIDIAとAMDの半導体に加え、アップルの高性能GPUであるApple Siliconのサポートを開始した。
この勢いに乗り、Modularはこのほどベンチャーキャピタルから2億5,000万ドル(約370億円)の出資を受けた。この3年間で3度目となる今回の資金調達により、同社の評価総額は16億ドル(約2,360億円)に達している。ピッツバーグに拠点を置くUS Innovative Technology Fundが主導した今回の資金調達ラウンドには、General Catalyst、Greylock、GV(旧Google Ventures)といった既存の出資企業に加え、新たにDFJ Growthが参加した。
「この分野でスタートアップを魅力あるものにするにはどうすればいいのか。その答えを見つけるために多くの時間と労力を費やしてきました。自社製チップの開発に取り組む企業はいずれも、AMDやNVIDIAのような大手企業でさえ、結局はソフトウェアの重要性に気づくことになるのです」と、GVのマネージングパートナーであるデイヴ・ムニキエロは語る。「ソフトウェアこそが最高に面白く、本気で取り組む価値のある課題なのだというラトナーの主張には説得力がありました」
CUDAの影響力
その価値はあるだろう。しかし、極めて難しい課題であることも確かだ。その難しさの一因はNVIDIAの閉鎖的な開発環境にある。NVIDIAの半導体はGPU市場の大半を占めているが、開発者をひとつの環境に縛りつけているのは、同社が20年前に独自のソフトウェアプラットフォームとして開発した「CUDA」だ。一方、高性能コンピューティングに特化したAMDのソフトウェアプラットフォーム「ROCm」は、オープンソース形式である点が異なる。ひとつのコードを別の半導体に支障なく転用できるのだ。
しかし、開発者たちからはNVIDIAのCUDAからROCmへのコード移行は容易でないとの意見が多く、結果的に特定の半導体ベンダーに対象を絞ったソフトウェアの開発が常態化しているという。
25年6月にAMDが「Advancing AI(前進し続けるAI)」と銘打って開催したイベントの席上でラトナーは、「ROCmは非常に優れたオープンソースのプラットフォームですが、特定のベンダーのハードウェア上でしか動いてくれません」と聴衆に語りかけた。そして、Modularのソフトウェアがいかに可搬性に優れているかを訴え、GPUの速度が格段に上がる仕組みを解説した。
提携と競合のはざまで
AMDのイベントにおけるラトナーの発言からは、Modularの理念を広く伝えるためにラトナーとデイヴィスが一種の“駆け引き”を強いられていることが伺える。いまのところModularにとってNVIDIAとAMDはなくてはならないパートナーだが、将来的には競合相手として直接対決を余儀なくされるだろう。Modularは自社のもつ価値のひとつとして、GPUを最適化するためのソフトウェアをNVIDIAよりも早く顧客に届けられる点を挙げる。NVIDIAには、新しいGPUを出荷してからGPU用ソフトウェアに不可欠のモジュールである「attention kernel」をリリースするまでに、数カ月の遅れが生じる恐れがあるという弱点があるのだ。
「現状、ModularはAMDやNVIDIAを補完する存在に過ぎません。しかし、いずれ両社はROCmやCUDAが自社の半導体に最適なソフトウェアでなくなる不安におびえることになるかもしれません」とムニキエロは言う。また彼は、Modularのように追加のソフトウェアレイヤーを提供する企業に代金を支払うことに、クラウドのユーザーが難色を示す恐れがあることも指摘している。
極めて難しい開発
GPU用のソフトウェア開発にはブラックボックス的な技術の難しさもあると、GPUカーネルの最適化を目指す専門企業「Mako」の共同設立者で最高経営責任者(CEO)のワリード・アタラは言う。「GPUにアルゴリズムを正しくマッピングする作業は、とてつもなく難しいのです。ソフトウェア開発者の数は1億人と言われていますが、そのうちGPUカーネルのコードを書ける人は1万人、優れた書き手となるとせいぜい100人程度でしょう」
MakoはGPUコーディングの最適化に向けたAIエージェント開発を専門としている。開発者のなかには、Modularのように汎用コンパイラーや新たなプログラミング言語を開発するより、Makoの取り組みの方が業界の将来にとって望ましいと考える者もいる。Makoは、ベンチャーキャピタルのFlybridge Capital とスタートアップ支援組織Neoから計850万ドル(約12億5,600万円)のシード資金を調達している。
「コーディング作業の反復的な部分を、AIで自動化しようとしているのです」とMakoのアタラは言う。「コーディングを簡易化することで、開発者の数を飛躍的に増やせるはずです。新たなコンパイラーの開発は、応用の効かない一時的な解決策に過ぎません」
ModularもAIコーディングツールを扱っているとラトナーは言う。ただし、Modularはカーネルに限らず、コーディングスタック全体の開発に注力しているという。
“ビッグテック環境”の外で解決を
投資家たちは、Modularのこうした考えに2億5,000万ドルの投資に見合う実現性があると考えたのだ。ラトナーはコーディングの世界では著名人であり、過去にはオープンソースのコンパイラー基盤「LLVM」や、アップルのプログラミング言語「Swift」を完成させた実績をもつ。ラトナーとデイヴィスは、これはソフトウェアの問題であり、大手テック企業が支配し、大半の企業が自社製品のためのソフトウェア開発に専念している“ビッグテック環境”の外で解決されるべき課題なのだと確信している。
「グーグルを去ったとき、少々気持ちが沈んでいました。この問題をどうしても解決したかったという思いがあったからです」とラトナーは明かす。「しかし、わたしたちは気づいたのです。これは人材の優劣や資金の有無、企業の能力など関係ない、構造的な問題なのだと」
GVのムニキエロは、テクノロジー企業専門の投資家がよく口にする言葉を教えてくれた。その企業の製品だけでなく、創業者自身に金を賭けるのだと。ムニキエロはラトナーを、「とても頑固でせっかちだが、多くの場合は正しい判断を下す人物」と評する。「スティーブ・ジョブズもそうでした。大多数の意見に従うことはありませんでしたが、彼の決断はたいてい正しかったのです」
(Originally published on wired.com, translated by Mitsuko Saeki, edited by Mamiko Nakano)
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