学級担任よりも「学年担任」
「学校でそろえることが大切」「学級王国をつくってはいけない」「チーム担任制、教科担任制だから、自分のクラスだけを見ていてはいけない」――。最近よく聞かれるようになった。
そんな中、私の元には悲鳴のような先生方の声が届く。その一つが、学級担任ではなく「学年担任」という意識付け、である。その中でも「学級通信の禁止」ということから、話を始めたい。
「学級通信禁止」の実態
「学級通信を書きたいけれど、書けない」という先生の話をたて続けに聞いた。理由は、あなたが書くと隣の先生も書かなくてはならないから、働き方改革にならない、というものである。
管理職や学年主任の気持ちは分かる。一つのクラスが学級通信を出していて、隣のクラスが出していないとする。隣のクラスは出しているのだから、うちのクラスも出してほしいというクレームに対して対応できないというものだろう。しかし、この考えには断固として反対である。
忙しい担任が、現状の仕事にプラスアルファで「クラスの子どもたちのために学級通信を書きたい」という気持ちは歓迎すべきである。特に若者であればあるほど「最低限の報告をすれば、やりたいことは何でもやっていい」と伝えるべきであると思う。
若者だけではない。学年主任クラスになると「書きたいけれど、自分のクラスだけがいいと思われてはいけない」という理由で書けなくなっている。自分のクラスだけがよいと思われてはいけない。その思いから、自分のやりたいことを制限してしまっている。
本当にそれでよいのだろうか。働き方改革という言葉で、学校として提供するものを一律で「やらない」という「下のライン」に合わせてはいないだろうか。
確かに、不公平だというクレームのリスクなどはある。しかし、「学級通信を出さない」と形だけしばることで、本当に公平になるのだろうか。
先生によって授業力も違うし、児童対応力、学級経営力だって違う。おのおのの良さをとことん生かすことこそ、大事なのではないだろうか。
「そろえる文化」が生む窮屈さ
このように学校現場では、「足並みそろえ主義」が横行しているように感じる。私が教員になった頃は、「学級通信を出すのは大歓迎」「休み時間は教師も外に遊びに行くのが当たり前」という風潮があった。校長室の壁には、各クラスの学級通信がびっしり貼ってある学校もあった(あれはあれで、書く時間がない教員にはプレッシャーになると思うので、お勧めはしないが)。
「学級通信を出すべきだ」と言いたいのではない。教員一人一人が「やりたい」と思う気持ちを尊重すべきだ、ということだ。もちろん出さない、出せないという権利も大いに認めるべきだと思う。
学級通信をやめて、学年通信をたくさん出している学校もよく見る。これが本当に保護者や教員にとって、よいものになっているのか点検してほしい。本当に思いをもって書いているか。隣の先生のことだけを考えて書いていないだろうか。
同じ学年集団として、隣の先生を思いやることはとても大切である。しかし、少し行き過ぎてはいないか。最近、ギラギラした若者に会うことが少ない。教員という仕事は、若者であっても裁量があって、独自の学級経営ができる楽しいものであったように思う。
やりがいが奪われる現場と人材流失
「何のために教員をしているのか分からなくなる」という先生に話を聞いた。中堅の、学年主任の先生である。学年全員がうまくいくように考えているが、自分のクラスへの情熱は年々減っているという。「何かやってみたい」という気持ちも湧いてこない。しかし疲弊している管理職を見て、「ああいうふうになりたいとは思わない」ともいう。
SNSを見れば、匿名の教員が学校の愚痴をたくさん書いている。実名で発信している教員は、どんどん学校現場から離れている。この現状を止めるためにも、「そろえる」という学校文化を変えていくことは必要だと考える。
若者はもっと自分のことだけを考えていい
若い先生は「自分はなぜ先生になったのか」という思いを持ち続けてほしい。
20代の先生は、「教員はブラック」という情報が耳に入ってきていても、教員になりたいと思ってくれた方々だ。今の現場は必ずしもブラックだとは思わない。あなたの中にある情熱を、周りからの情報のせいで消さないでほしい。目の前にいつも子どもたちがいて、学級の中ではある程度の裁量権がある仕事ができるのは、教員の特権である。1日1日を楽しんでほしい。
先輩方からいろいろ言われることもあるだろう。しっかり話は聞きつつも、自分がしたいと思うことをすべきである。若い先生は、ベテランの先生より目の前の子どもたちと年が近い。その強みは最大限に使った方がいい。とことん教材研究をし、学校外の研修の場に飛び出してほしい。必ずやあなたの今後に生きると思う。私もそうであったからだ。
チーム学校としての活動は大事だ。しかし……
そろえることについて書いてきた。もちろんそろえないことの弊害もある。どこまでそろえるのか、そろえなくてもいいのは何か。改めて学年、学校で確認すべきであろう。
それに明確な答えがあるわけではなく、結局は対話するしかない。「この人とは考えが違う」と思っていた人でも、話してみれば共通点が見つかるのはよくあることである。
夏休みまで怒涛(どとう)の日々が進んでいく。1学期がうまくいけば、その財産で2、3学期を迎えることができる。今が正念場である。目の前の子たちをしっかり見る月にしてもらいたい。









